2013年05月31日

菖蒲-青葉(相馬市城下町の夏)


菖蒲-青葉(相馬市城下町の夏)

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老鶯や前畑に婦松並木
辻曲がり青葉に映えて大手門
駆け上り黒橋渡る青葉かな


植田に三羽の鷺の餌あさる変わらぬ生活ここにありけり

黄菖蒲の水に写りて流る水とどまることなく真昼明るし
今日も見ゆ城のお掘りに紫と黄の菖蒲の写り映えにき
黄菖蒲のお掘りに映えて女高生明るく歩む真昼なるかな
宇多川にしきり鳴きつつヨシキリや我がまた来る相馬の街に
長々と柳の垂れてそよゆれぬ影の深しも城下町かな
義胤の中村城に移りすむ青葉目にしむ光まぶしも
街中の畑に塊り紫の菖蒲色濃く雨しととふる


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梅雨入りだと言っていたけど今日は快晴だった。昼間から相馬市へまた行った。毎日のように原町から相馬市へ行っている。自転車が前より快適に走ることもある。前の自転車は疲れやすかったのである。そして毎日のように書いているけど相馬市は今までと変わりない景色であり生活なのだ。南相馬市は田んぼも試験のための田しかなく草茫々となっている。それで相馬市にゆくと今までと変わりない風景と生活になっている。

それが今までなら当たり前なのだが何か新鮮なのだ。
何かはじめて見るような景色にもなっている。鷺が三羽植田を歩み餌あさりしていた。三羽というと今までは普通にみかけた。南相馬市では時々一羽くらいはみかける。でも三羽はみかけないのである。それが何か新鮮なのである。


今の時期はすでに藤の花は散っていた。菖蒲と青葉の季節になっていた。菖蒲が植田に映える光景は今でもあったが南相馬市にはない、流れる水に写っているのも新鮮だった。相馬の城跡の大手門は青葉だった。あそこの瓦は滴水瓦であり朝鮮系らしい。新地の神社にあった文禄の碑は文禄慶長の役であり文禄の役とも言われたから朝鮮への秀吉の出兵を記念して伊達領であった新地に建てられたのかもしれない、文禄とかわざわざその時代だけを碑にするのはない、だから文禄の役でありそれが特別だから文禄となった。伊達政宗も第16代当主・相馬義胤も参戦して九州の名護屋城にともにあったのである。名護屋城には行ったことがあるが石垣が崩れ直していた。蜘蛛の巣が張っていたりあまり訪れる人もないみたいだった。あの時は冬だっから人も訪ねなかったのかもしれない。相馬義胤の時代に中村城に移ったり相馬藩の礎が築かれた。九州まで行ったし伏見にもいたし朝鮮から広く日本を見聞したのである。小高の貴布根城はやはり海に面した城を見聞してまねて作ろうとした。小高の塚原は実際に船の出入りがある湊だったのである。


義胤の時代に津浪があった。義胤の時代は相当な激動の時代だったのだ。戦国時代の真っ只中でもあり津浪もあったし城も三回ほど移るとなると落ち着かなかったろう。だからこの時代は小説にもなった。ただ青葉というと政宗の青葉城がふさわしいともなる。仙台の青葉城に行ってもなにか当時を感じなかった。仙台の街があまりにも大きくなりすぎて変わりすぎて感じないということもある。
相馬の城は何もないのだけどさほど変わらないということがある。町並みは拡大しても高いビルなど建っていないから情緒が残っているともなる。


黒橋を上ったり下りたりして高校生が訓練していた。あそこは足腰を鍛えるにはいい、一方もう一つの橋は赤橋となっている。その橋から見ると地震で崩れた石垣が見える。赤橋から見る景色と黒橋から見る感覚は違っている。本丸のあった所の藤の花はほとんど散っていた。意外と早く散るものだと思った。

 
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