
タンポポや明るさふりまく神の手に
老夫婦畑仕事や白菖蒲
老鶯や昔の水車回るかな
老鶯の声の余韻や森深し
山路きて日影に咲けるシャガの花今日この道行く人なしも
水車が回っていた時代はのんびりしていた。今の騒々しい時代とはあまりに違っていた。生活そのものが自然にとけこんでいたのだ。そういう時代に老鶯があっていた。スロ−ライフの象徴が老鶯なのだ。
団塊の世代が退職するとスロ−ライフに社会が変わるかもしれん、高齢化社会はそうなりやすいからだ。しかし高齢化社会の落とし穴が認知症、ボケになることだったのだ。人間退職して暇ができてもそれでは今までやれなかったことを一からはじめることはむずかしい、たいがいそうした根気もなくなっているのだ。ただ今まで継続していたものはできるのだ。ところが会社をやめたら仕事もなくなるということが大問題なのである。人生の継続が断たれてしまうからだ。workとは仕事の意味だがこれには作品という意味がある。仕事とは一生かかって完成する作品のことである。これは芸術家の場合はこれにぴったりあてはまる。またworkには機械が正常に作動する意味がある。認知症、ボケになると脳が正常に作動しなくなるのだ。つまり人生を作品として完成させようと脳を作動させてゆく場合は認知症にかかりにくいとなるのか?そういう面が確かにある。
チンパジ−の実験で彼らにパズルを与えると大喜びしてそれを得ることを待ち、要求する。彼らにとってバズルを解くこと自体が楽しみなのである。しかしある時パズルを解くと食べ物を与えるようにするとチンパンジ−はしだいにパズルそれ自体を楽しむより食べ物を得るためにパズルするようになる。やがてパズルだけを与えて食べ物を与えなくなるとチンパンジ−はパズルへの興味をなくしてしまう。(あなたの隣の狂気−町沢静夫)
これは非常に示唆的である。このことは人間の根本的な問題として比較される。子供は何か金を得るためにとか名誉得るためにとかのために遊んでいるのではない、遊び自体が楽しいから遊ぶのである。大人になるとそうした子供のように純粋に遊ぶことがなくなる。勉強自体が大人は親は自分の欲のために子供を自慢したいために勉強させる。試験とか点数主義になるのもそのためである。純粋に学問への興味から勉強するのではなくなる。このチンパンジ−の実験は現代文明の人間が実際は進歩したようで堕落した一面を指摘している。遊びそのものを楽しむのではなく遊びさえが金を得るとか何か遊びを通じて別な利益を得るためのものとなる。学問とか仕事自体の興味からではなくそれが名誉になるとか金になるとか有名になるとか別な卑しい動機がそこにからんでくるからだ。文学なども文学自体の興味の追求ではなく賞をとることが目的になったりする。それを企画して売るのが現代のコマ−シャリズムの出版社なのである。彼らは大衆に売れるものを企画して宣伝して金のために働くのであり純粋に文学など追求していないのだ。
資本主義社会であれ現代の物質文明はこういうことが非常に多いのだ。それはいつの時代にもあったではないかとなるが古代ではそうではなかった。古代ではむしろ実用品でも壺でもなんでも装飾に非常にこっている。その装飾は実用だけを目的にすれば必要ないものだが人間の特性としてそうした無駄なもの遊び面白いものを無償で追求するのが人間が人間たる所以(ゆえん)なのである。江戸時代の職人気質でも自分の納得いくものをこって作っていた。それは必ずしも収入が増えるからではなかったのだ。そういう自分の技を認められたいということがあったのだ。だから職人の名前がついたものが江戸時代には多いのである。誰の櫛や飾りがいいとかその人の名前がプランド名になっていたのだ。
古代では踊りとか祭りとかすべて神への奉納するものであり資本主義社会の金のために売るためにするものではなかった。神聖な行事であった。そしてそういう踊りとか祭りとか装飾とか一見現代では実用的でない無駄なことに多くの時間が費やされていたしそれは遊びでもあった。遊びとは神聖な神遊びであり神と通じることが遊びだったのだ。現代の物質文明はこの無償の純粋な遊びをなくしてしまったのだ。何か対価を金を得られなければやらない、食べ物をもらわなければパズルをしないのである。パズル自体への興味を失ってしまっているのが多いのだ。これが認知症とかボケが増える要因になっているかもしれないのだ。なぜなら会社に勤めているうちはかなりの報酬がもらえる、だから社会でも家庭でも有能な人間として価値あるものとされる。しかし退職するとその仕事は失う、年金などをもらえるが仕事自体はなくなる。もともと仕事(作品)の追求が目的でないとすると会社をやめると同時に仕事を失うのである。そうすると脳もworkしなくなる、作動しなくなりボケに通じてゆくから怖いのである。
退職すると利益をうまないこと、金にならないことも追求できるがそういう純粋な遊びとかしてきていないからやる気にもならないのだ。利益、食べ物をもらうことのない仕事は仕事ではない、遊びは仕事ではないとなると簡単に自由に自分のやりたいことをやれと言っても遊べといっても今まで遊んでいないものは遊べないということがある。ここに高齢化社会の深刻なの問題があり社会での役割喪失とともにボケに通じてゆくという恐怖があるのだ。高齢化社会というのはかえって大家族や地域が濃密に交わる社会とかスロ−社会とかかえって昔の社会が高齢者にとっては適合しやいものだった。文明化により栄養が良く医療もいいので長寿社会になっても皮肉なことに現代文明はそれに適した環境を提供できないのだ。だから大量の認知症、ボケ老人を作り出すことにもなる。
動物と人間の相違(麻薬犬の訓練)−遊びの必要
http://www.musubu.sblo.jp/article/1128249.html