抽象画は見る人によってどうにでも見える。具象画だったら山を描いたら山にしか見えない、家だったら家にしか見えない、人間を描いたら人間にしかみえない、でも抽象画どんなふうにも見えるしどう名前をつけてもいいのだ。ここではそれぞれの住んでいる市町村でも違った感じになるのだ。
南相馬市の原町は一早く近代化した都市だから赤のイメ-ジになる。
相馬市は城下町だから紫のイメ-ジになる。他は小高でも鹿島でも土の色とか緑になる。
そういえばそういうふうに見えるなともなる。
秋深む
抽象画は第三芸術くらいにしても意外と奥深いものがあるかもしれない、単純化したなかに奥深いものがあるかもしれない、それはやはりその人の見る眼によるのだ。
秋の紋様というのがあまりにも単純なものでありこれがどこがいいのかとわからないだろう。
でも自分でも秋の色を単純化したものでこれは深いものがあるかと思ったのである。
自分で作って自分で評価するのも変だが抽象画はそれだけ自分で作ったものでも解釈も必要になる。秋の紋様としてことでこれが秋なのかということを理解するだろう。
この題は 秋深む だった。やっぱり抽象画はタイトルもかなり大事である。なになのかを示さないと見る人が見当もつかないことがあるからだ。
結局パソコンの抽象画ソフトによって量が増えてくる。無限に増えてくる。エッセシュル4かなり使える、だいたい三つのソフトを組み合わせると抽象画できる。その過程はある意味で決まってしまってもいる。ソフトの中で使いない機能もある。使う機能は必ず使っている。
これは抽象画を作る一つの技術化している。
写真でも加工すると違ったように変化できる。ただそれが元の写真でも絵でもわからなければいいのだが一目見てわかるのは著作権違反になる。でも抽象画からまた抽象画できるのも不思議である。
化学変化とにているのだ。一つの写真でも絵でも変化させると違ったものとして見えるから豊かなものになる。いづれにしろパソコンの抽象画新しい分野なのである。
だからなかなか評価されないということがあるだろう。
今までも抽象画を画家は描いていたがパソコンで作るのとは違っていた。
パソコンでしかできない抽象画かなりあるし絵が描けなくてもパソコンだと抽象画が素人でも作れるようになったのである。
自分のように全く具象画ができなくても抽象画は作れるのである。
ただ見る眼の方が抽象画では大事である。
春の感じとか秋の感じを深く知らなければ感じないだろう。それは日本の俳句など季語の見方に通じているから抽象画もやはり日本的なものが風土が反映されるのである。