白鳥来る仲間十羽や夕日に飛ぶ
残る虫なほひびきけりその隅に
野に枯れぬ薊のあまた冬没日
草の花石の壺に挿し何望む我に向かいてうなだれ咲くかな
白鳥が飛びながら十羽ほど夕日に向かってかなたに消えた。ここの川には餌やる人がいるので来るのだがここの川には休まず向こうの方に飛んでいた。ただここがもしかしたら前きたところかと確かめていたのが何回か旋回していた。やはり前きたところを探していたのだろう。白鳥はなかなか飛んでいるところが見れない、今日は十数羽飛んでいるところを見た。これは移動してきたばかりだから休む場所を見つけるために飛んでいたのだ。私の日記の記録ではここに去年ここにきたのは11月1日とある。15日くらい遅れているのだからシベリアもあたたかったということか?世界的に暖冬になっている。白鳥はヨ−ロッパじは一段と美しく映えることが旅行でわかった。スイスでもそうだし湖とか川とかが波をたたない静かだし古城とか教会とかに映えるのだ。白鳥の騎士などというのもわかる。白鳥は大陸の大きな空ににあう大きな鳥なのだ。日本には空がないと書いたけど白鳥のような大きな鳥は日本にはあっていない面があったのだ。その土地によって花でも動物でも映えるものがある。日本では白鳥は確かに来るのだがあまり映えるものに見えないのだ。それはやはり環境によっているのかもしれない、運河のよう大きな川に浮かぶ白鳥はあっているが日本では白鳥があう場所が少ないのかもしれない、今年は冬といっても今日だってあたたかった。だからまだ冬という感じがしないのだ。
今北白鳥にはロシアの寒さを帯びてとけていないだろう。このくらいあたたかいとああ、こっちはあったかいなとほっとししているのかもしれんな・・・
残る虫がなお鳴いているのではない、ひびいているとしたのは93才でも本当に元気な老人は残る虫でもそのひびきが違うのだ。今日見た87才の近くの老人は顔がげっそりして病人のようだった。認知症になったら顔もふけて陰鬱になりやはり病人の顔であり活気がなくなる。一方90才でも聡明な整った顔に見える人もいる。人間はつくづく認知症に接して頭が脳がいかに大事なものか知った。一方は90度に腰は曲がっていても他の人でも体型や皮膚がどうなっても頭さえしっかりしていれば老齢は別に醜いものとならない。人間は頭さえしっかりしていればどんなに年取って醜くなっても人間である。認知症などになると頭がやられると致命的なことがわかった。