(インタ−ネットで解放された知の世界)
松一本仙台平野の植田かな
この写真を例にとるとこれは仙台の飛行場まで自転車で行ったときとったことは覚えている。仙台の飛行場に向かっていたことは確かである。いい松だなと思って写真にとったのである。しかしよく見たらその時は田植えしていた人がいたのか・・・植田になっていた。その時期がよく思い出せなくなっていたのだ。写真を見てこの時は田植えの時期か植田だから夏になっていたのかと思い出した。思い出したというより記憶になかったことを再認識したのである。松一本といってもいろいろな松の形があるから言葉だけでは表現できないのだ。この松はこの松だけの個性かもしれない、同じ形の松はないかもしれないからだ。写真で見たらいかにもたくましい松だなと思った。松一本では同じ個性のない松になってしまうからだ。
人間の記憶ほどあいまいなものはない、だから目撃証人はあいまいでありほとんど信用できないのである。かえって監視カメラが忠実に証人となっているのでもわかる。写生というときカメラの方が忠実に写生している。ではカメラだけでたりるかというとカメラは全体の把握には適していない、確かに松と植田は写しているがその平野がどこなのかはわからない、仙台に通じている平野だということがわからない、写真はやはり全体的なことを知ることはむずかしい、一部分を詳細に記憶することには向いているのだ。全体から見るのは人間の方が優れているしその意味づけするのも人間である。
●インタ−ネットは知を解放した
パソコン時代はサイボ−グとか人間とコンピュタ−一体化することが必要になっているのだ。旅しても頭脳に埋め込まれた記憶装置が全部動画でも記憶するのである。その記憶をふりかえりまた創作活動をする。コンピュタ−は人間の能力を補うのである。インタ−ネットでも旅をして北海道の町で「廃船」を見た、そこから記憶をたどり詩を書いた。他人の文を一部拝借した。廃船というキ-ワ-ドでインタ−ネットから新たな世界が構築できる。それだけのものがインタ−ネットのなかにある。私が読んだのはその一部だった。今や創作はコンピュタ−とつながりインタ−ネットとつながり知的共同の構築となっている。インタ−ネットでは今まで読めないものが読める、詩というのは書店に置いても金にもならないし売れないものである。だから膨大なものが埋もれていたのだ。他にも知的世界は無限であり小さな書店などでは読めないものが膨大にあった。その一部を今知るようになったのだ。アマゾンでもインタ−ネットで検索してあれこんな本があったのかと買って読んでいる。西行を知りたければそれに関する本が百冊とかでてくるかもしれない、認知症関係ではすでに百冊もアマゾンで買っている。そのように本を集めることができる。これも知的環境で変わったことなのだ。
そもそもこうしてパソコンでいくらでも文章が書けること自体、それも発表できること自体画期的なことなのである。本にしようとしたらできないものがいくらでも書ける。それが本にならないからつまらないものだとはならない、本にすることは特権がないと権力をもっていなとできない、だから組織をバックにしてしか出せない、出版社自体が組織であり大会社でありその承認を得ない限り書店にも置くことすらできない、自費出版など金にならないから邪魔になると門前払いにしかならないのだ。インタ−ネットで書くこと発表することが弱小の個人に解放されたのである。インタ−ネットは第二のグ−テンベルグであり知の解放の時代なのだ。知は取次、再販制などによりコントロ−ルされていた。新聞の強みは宅配制度にありメデアであったのだ。一軒一軒に情報を運ぶシステムに新聞の強みであったが今やインタ−ネットで新聞は必要ない、紙の無駄な消費に変わってしまったのだ。
ともかく俳句という文学もデジカメにより新たな創造が開けたのである。ただパソコン−インタ−ネットは過渡期であるからそれが何を意味しているのかまだわからないのだ。全部が全部いいとは言えないしそこでかえって個人は消失して百科事典の引用のために書いているのか?ある項目のために書いているのか、何か作者にしては虚しいとなる。得しているのは誰なのか?グ−グルとかの検索会社でありそこでは莫大な利益をあげている。宣伝でもうけている。情報をいくら出しても見返りがないとか結局宣伝されないようでもグ−グルの宣伝に貢献しているとかなってしまう。ただそういう不満があってもやらざるをえないのは今までの出版界というのが知の閉鎖世界であり排除世界だからであった。そこには何ら入り込む余地がゼロなのである。出版社の賞に入りコマ−シャリズムの世界に売り出される他発表する余地すらない世界なのだ。そこでは芸術性はそれほど大事ではない、出版社によって売り出される、宣伝されて価値がでてくるのである。実際は出版社より作者が力を持つべきであり出版社は作者に従うべきものなのだ。インタ−ネットでは作者が自由にいくらでも書けるからそこに新しい知の世界が解放されたのである。

子規の鶏頭の句について(デジカメと俳句は相性がいい)
http://www.musubu.jp/hyoronazami.htm
ここの薊の句は写生にしても良くなかった。文章は良かったのだが俳句自体は良くなかった。というのは薊は夏の季語であり季語が二つ入っていて俳句になっていなかった。俳句などもあとから自分の作ったものを再読すると自分でもつまらないものとわかることがある。やはり時間がたってより客観的になるからである。自分に対しても客観的評価ができるからだ。写生については俳句作る人はみんな第一に考えるからもう一度まとめて書いておいた方が誤解がないだろう。
インタ−ネットは前に書いたものを簡単に変えたり付け加えることができるが二回読む人は少ないから誤解も生まれる。プログは毎日書いているので情報を出しているので前に書いたものの変更などを書いて読まれるかもしれない−膨大な量になっているので自分さえどこに何を書いたかわからなくなって困っているのだ。