神話伝説化した旅の巨人−西行編−(評論と鑑賞)
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評論と鑑賞というのは前に書いていたけど長文が書けないので書かなかった。私も30年旅したから旅ということで西行に興味を持った。西行は芭蕉とはスケ−ルが違う神話的伝説的旅の巨人だった。芭蕉は細心の注意を払い文学的構想の上に予定通りの旅をしたのであり・・行方もしらに・・という旅本来の醍醐味に旅をしていない、なぜ鎌倉時代に宿場も整備されていないのに空間でも時間でもスケ−ルの大きな旅ができたのか謎でありまさにそれこそが西行が神話的伝説的神秘の旅人でありすべての旅人を陵駕している旅の巨人であることに気づいたのだ。西安の王の墓にギリシャのペガサスの像があるように陸奥まできている不思議がある。その時陸奥は世界の果てのような地域でもあったからだ。その後の旅人はみなスケ−ルが小さいからである。山頭火で実際は旅人は存在しなくなったのだ。今や道は未知ではないすべてが見通された既知の道なのである。これは世界一周でもそうなのだ。予定通りの旅であり思わぬ道(未知)の世界に出ること出会うことはないのだ。むしろ近くの知られざる道が未知になっている皮肉がある。
上野霄里氏の言うように旅に関しても旅は失われ人間的不毛の時代が現代である。人間が世界を簡単に旅ができても卑小化されている。神話的伝説的人間は見いだされない、過去にこそそういう人間が現存したから人間的に豊かな世界だったとなる。現代はあらゆる面で人間はつまらない機械の組織のパ−ツにしかされない、それが人間なのか?これが常に疑問でありそのことを書いてきた。人間は文明化により空間や時間を征服しようとした。だから地球の裏側までに簡単に行ける、でも西行のような神話的伝説的人間が生まれることはない、かえって交通が不便だから西行のような空を駆けるような人神話的人物が生まれたのである。これだけ文明化してもかって人間が卑小化されるなら文明の意味は何なのだろう?そういう疑問をもつ人が少ないのも文明化され家畜化されて本来の野生的な人間の巨大さを見失っているからなのだ。