隣り合う畑に老婦や朝の菊
晩菊や帰る農夫に松一本
農民はミレ−の絵でも常に田園のなかにあり絵であり詩になっている。だから題材になりやすい。畑にいる農夫、農婦、老婦・・・これらは畑と大地と一体化しているのだ。農民は大地とともに寡黙であり大地に溶け込み沈黙化する。ただ現代は機械を使うから大地も農民も騒音化している。昨日は浪江の方まで行ってやはり同じように畑に婦(おんな)がいた。隣り合い畑仕事していた。隣り合うというのでまた晩菊にして俳句にした。隣り合う晩菊静か竹の垣−この時老婦が晩菊にあっているのだ。ただ写生だったら隣り合う畑の一人は老婦でも一人は違っていた。そこまでよく見ていなかったのだ。自転車でも早く過ぎ去るからわからないときがあるのだ。バイクだったら全く通過するだけで道すがら見るものが極端にへる。自転車でさえ飛ばすことは快感である。バイクは飛ばすことが快感となり回りの景色は通過するだけのものとなってしまう。
隣り合う畑や田んぼというときそれらは競争しない、協調関係にある。確かにグロ−バル化で競争していても地域では競争するということはあまりない、でもいい米や野菜を作ることで競争している時代でもある。でも農民には競争はにあわない、大地との協調、融和でありそれは人間にも通じているのだ。ただ農業の世界も牧歌的な時代はあまりにも遠い、でも未だに農民は自然を相手にしているから自然の点景となり絵や詩になりやすいのである。