新田村のおみかとは実在したのかな?
飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く
こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。
ただそれも豊かな藩のことである。
おみかという名前の由来はここからきていたのだろうか?
現在では「みか」とはいわず、
「瓶」=「甕」=「かめ」と読むことが多い。
古代人は、美しく流れる川を「御河(みか)」と呼んだ。
その川沿いにひらけた原野に、「御河之原(みかのはら)」と地名をつけた。
川の流れ込む形が甕(カメ)に似ていたからという説もある。
聖武天皇がそこに恭仁京(くにきょう)をおいて生活していた
時期がある。(740〜744年)
「三日原(みかのはら)、布当(ふと)の野辺を清(すが)みこそ、
大宮処(おおみやどころ)定めけらしも」―― 『万葉集』
http://blog.goo.ne.jp/obi-jime123/e/506c6a3bd586ca16e57c5dad4baf619f
大甕(おおみか)という地名もそうなのか? 川に由来したものなのか、梅川が流れていてその名がついたのか?名前も考えてみるとどうしてつけられたのか不思議である。
ただ新田村には近くに釣り堀があり通っていたのである。
例の溜池で誰かが釣りをしていた。その釣りをしている人と話をした。どこかの釣りする所では魚を釣り堀のように放流しているという、それで人を集めている。釣りといっても今はとった魚を放している。魚をとって食べるというより魚をつり上げる醍醐味を楽しんでいる。そもそもそんなに魚をみんな釣って食べてしまったら魚がいなくなってしまう。
最近読んだ雑誌でもそもそも日本近海の魚はとりすぎていなくなり漁師はもう生活が成り立たないという。魚もとりすぎるとそうなる。魚の養殖を考えるべきだというのもわかる。天然の魚はとり放題にしたらへる一方なのである。魚も釣り堀化しないとへって魚はとれなくなるのだ。天然の鰻も絶滅するとかなる。そういう時代になってしまった。養殖化しない限り漁師の生活は成り立たなくなる。右田浜でとれたのはイシモチとかスズキだった。それらとって食べていた。海の魚は食べていた。
その人はとれたときは60匹もとれたという。魚もとれるときはとれるのである。
ともかく釣りしている人と話したように相馬藩の城の殿様も釣りを楽しんでいたのである。
「何か今日は釣れましたか」
「今日はさっぱりだったな、でも人間が釣れたよ、鄙にはまれな美人が釣れた」
「どこのどなたで、新田の里の娘だった、おみかと言っていたな」
「殿、あまり遊びはいけません、他の村の者が働く意欲をなくします」
「まあ、そんな娘がいたことを話しただけだよ」
「釣りの方に精をだしてくだされ」
「それもそうじゃ、人間を釣るより魚じゃな」
「そうでございます、殿様は村民の模範でもあるんですから・・・」
その日はぼかぼかと春のあたたかい日が新田の里にさしていた。桜もそここち咲いていた。
「相馬中村石屋根ばかり、瓦(変わら)ないのでドント人が好く・・」こんな戯れ歌が残っていること相馬藩の城があった中村は何か本当に田舎の城であり貧しい城下町だったのである。
だからこそやはりそうした浮ついたもの、贅沢はできない藩であり殿様も質素を心かげるのが普通である。そうしないと下々の風紀も乱れるからである。
我が城より相馬の城下を見渡せば
相変わらずに石屋根ばかり
春なれど何か寒々しかな
新田の開拓は成れどなお貧しき
いかにして民の豊さのあれや
今年の春も花散りて逝かむとするかな
こんな話しになっていたのか、それなりに相馬の殿様の話があれば新田の里も興味が湧くということがある。相馬の殿様のことは何か具体的に浮かんでこないのである。