2013年04月29日

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった



元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった

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新田の里を開いた人の名が記されている

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横山の姓があり二種類の旗印がある
横山は新田の里を開いたと記してあった
新田村は20の旗印があるから大きな村だった



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碑が津浪で倒されたまま

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バイパスまで津浪が来た


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鷺が田んぼにいた-今はめずらしい(鹿島区)

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元禄の碑があったのは程田ではなく新田だった。新田という地名が新しいと思って程田が古いと思ったから程田としてしまった。今日その碑のあるすぐ近くで畑を耕している人がいた。そこは飯豊村であると最初に言った。土地の人ですかと聞いたら違っていた。どこの人ですかと聞いたら南相馬市だという、なぜここで畑を耕しているのか?南相馬市では畑を作れないからここで耕しているという、土地を借りて耕している。ここでも津浪をかぶった。津浪はバイパスまで到達していた。見れば相当に広範囲である。今回の津浪はどこでも広い範囲に広がったのである。飯豊小学校前まで来たというから驚きである。鹿島区でも鹿島小学校前まで来た。ともかく飯豊村は大曲と程田と新田がある。元禄の碑があったところ古い碑が一杯あったところは新田である。新田と言っても実際は元禄時代にすでに新田となった。新田となったのは開拓したからそういう名になった。

その名がついたのは元禄時代にすでにその名があった。正徳時代に新田村は756石であった。大曲と程田は400石である。干拓された面積の方がそれほど広かったのである。それ故にあそこに古い碑があるともいえる。何らかの記念なのかもしれない、実は元禄時代は全国で開拓が進み米の生産高がかなりあがった繁栄した時代だった。だから元禄時代には華やかなイメ-ジがある。芭蕉が活躍したのも元禄時代である。日本文化の興隆期でもあった。だからそこに元禄の碑があっても不思議ではない。相馬藩でも開拓が盛んに行われた時期でありその時の新田なのである。 その畑を耕していた人はあの辺に杉堂とかあって杉林があり隠れて田を作っていたという。隠し田ですかと言ったら税金逃れるためにそうしたものだろうと言っていたからそうなのである。でも平坦な地だから隠れようがないのである。ただ当時の風景は違っていた。杉林があり隠れるような田があったのかもしれない、隠し田というとき日本全国でありこの辺では鹿島区の塩崎とか小山田に隠町という地名で残っている。これは隠し田のことである。確かに塩崎でもそこは目立たない隠れた地点であり小山田も山側であり隠れた地点にあるから合点がいく、でもあそこは平坦であり隠れるような田が作れるようには見えなかった。
 
隠し田と五郎右衛門
http://yaromai.dip.jp/minnwa2/mukasibanasi/kakusida.html
 
隠し田が発見されると首が飛ぶ厳しい罰があった。それでも作っていたということは税としての取り立てが厳しいからそうなった。この物語では庄屋がわびて腹を切った。庄屋とはそれだけ責任がありかばうものだった。これは明治以降の地主とは違うものがあった。地主には自分が犠牲になるような物語はない、庄屋と地主がにているようにも思うが実際は違っていた。だからかえって明治以降は江戸時代より農民が不平等にもったとしたら何ための明治維新だったのか?庶民にとってはいいことがなかったともなる。ただ商人とかその他会社とか工業関係の仕事に就いた人は良かったのだろう。農民は江戸時代より悪くなったのだろうか?明治維新で得したのは誰なのかとなる。
 
その人はここも放射能のために土を半分くらい削り取ったという、ここは津浪で塩分のため削りとったのかと思っていた。放射能のために削り取った。放射能は計測して今はここは安全だという。かえって栃木や群馬の方が放射線量が高い田畑があるとか言っていた。相馬市でも南相馬市とそんなに距離がないのだから放射能の影響はさほど変わらないとなる。 その場所ではその畑の前に竹藪がありそれが津浪を防いだという、今は何もなくなっていた。竹藪のようなもので防げるのかと思った。勢いをおさえたのかもしれない、津浪は意外と何らかの障害物があると弱まる。鹿島区でも海老の坂が津浪を防いだとか言うのは意外だった。つまり意外なものが津浪の力を弱めていたので悪。竹藪は竹が密生して根が強く張っているから波の勢いをある程度とめたのかもしれない、ただ松原などは根こそぎ倒された。海岸線から多少離れているから津浪の力も弱かったのか?松川浦はそこは近くである。松川浦の方かもあふれてきたかもしれない、バイパスまで津浪が広がったのだから広範囲だったのである。今では新田辺りは津浪の跡はない、家も元のままである。ただ元禄の碑があったところが碑が多くあり津浪で倒れたままだったのである。
 
相馬市の程田、大曲、新田を訪ねる
 http://musubu.sblo.jp/article/64988032.html
posted by 老鶯 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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