相馬市の大曲、程田村、新田を訪れる
(城跡の桜もすでに散りはじめた)
ここに舘腰があった
ここに元禄の碑があった
これは安正(安政)だろう
沈丁花一人に余す香りかな
春耕や前畑にでて老いにしも
畑に人朝に雲雀や花に影
釣人や春の日ざしに同じ池
夕陽さし六万石も花盛り
新しき芽はいでにけり我が庭のありてなおしも生きるべしかな
新田にそ元禄の碑や津浪跡残り尊き春の日さしぬ
新田なる里の社の古りにしや二つほど見て春の日暮れぬ
古き碑のここに並べて新田なる春の日あわれ我がよりにけり
古き里なにしか親し小径行き辻を曲がりて春の日さしぬ
古の人の歩みし道親し春の日さして我が歩みけるかな
街道に枝垂桜の古りにしや根より二つに分かれし幹かな
街道や夕べ桜に松並木日立木通り我が帰るかな
これは二つの木ではない、一つの木である
今日は相馬市に行ってきた。途中の池でやはり釣りする人がいた。小さいのしかとれないから面白くないとか言っていた。渓流釣りはどうですかと言ったら危険で年だからできないという、そして釣りは気が長いとできないでしょうというと気が短いからできるのだという、それが良くわからなかった。釣りをしてみないと釣りのことは良くわからない、ヤマメはいるな、岩魚もいるよ、ええ、岩魚は見たことないな、岩魚は隠れているのかな、ヤマメは浮いているのをみかける、岩魚はこの辺ではまだ見たことがない、今はただ食うためにとっているのではない、遊びですよという、釣った魚は放している。自分の父親は良く釣りしていた。鮎釣りもしていたし鰻釣りもしていた。何回かついていった。その時はオカズのためであり食べるためだったのである。何しろ貧乏な時代だからそうなった。今はこの辺ではいくら魚釣っても放射能で食べられなくなった。ただこの同じ池で釣りしている姿をみるとなんとも平和である。自分も苦労の連続だったが病気も楽になったので春の日をともにのんびりした。
それから相馬市の方を一度行って松川浦の方をめざした。そこで大曲とかで津浪が来たかと聞いたら来ないと言っていた。川がありそれは梅川でありまさに埋められた川である。途中で川がなくなっているからだ。そこは新田村だった。。かなり松川浦に近い所だった。その辺はもともと伊達領でありかなた古い村だった。なぜなら津浪に倒された碑の一つが元禄と記されてあった。元禄と記されているのは葛尾(かつろう)村で見たものだけだった。それでここは古い村だと思った。元禄の碑は未だに二つしか見ていないのだ。館腰宮の碑があるのはこれは館腰駅があるので記憶されるがこれも伊達領の神なのだろう。相馬地方には伊達藩の関係の信仰の碑がなりあるからだ。ここは調べれば面白い場所みたいだ。ここで不思議に思ったのは松川浦がかなり近い、でも津浪の被害は辛うじてまねがれた。一部この墓地や浸水はしたが大きな被害にはならなかった。
でもかなり松川浦が近いのである。新田とか地名があるがやはりこの辺までかつては湿地帯で海だったから磯部となるとあとから作られた村だとなる。ここは磯部よりずっと古いのである。村の新旧を知ることが郷土史の基本である。村が古ければ必ず情緒を感じる。何か故人の跡がしみこんでいるという感覚になる。その道一つがもしかしたら故人もひんぱんに歩いていた道だとかなる。奈良辺りだったら古代からの道があるから古いとなる。ただ旅しては急ぐからゆっくりと味わうことができないのである。
そこからまたもどってきて城跡に行きそれから街道を帰ってきた。枝垂桜は二木の松とにていたのか?根元から二つに分かれていた木であり一つの木ではなかった。あれも気づいていなかった。
人間は何度も言っているが意外と近くのことがわからないのである。今回もここにこんなに古い碑があってここがこんなに古い村だとは思っていなかった。まず津浪の被害にあった所はやはり新しいのでありここは津浪の被害が大きくなかったから古い場所だったのである。村の新旧が津浪の被害でわかったということもある。
鹿島区でも畑をやっている人は結構いる。畑に人がいてこそ土地も活かされている。それがいない風景は自然と調和しない風景になる。雲雀がなき人が畑にいて花の影にいこう・・そこで調和しているのである。今度は新地辺りに行ってみよう、詳細な細部にこだわれば狭い範囲でも見るべき所がある。それには多少の郷土史の知識が必要になる。古い碑があると具体的に感じる物があるからいいのである。
大曲には復興住宅が46軒建っていた。あそこの前まで津浪が来ていたのだ。それは別なカテゴリ-に出す。