
秋の薔薇赤さにじみぬ夕べかな
一輪だけ畑のようなところに咲いていた赤い薔薇を見たらその中の赤さがやはり秋の薔薇らしい赤なのだろうか?うれたような熟年の女性のような赤だった。秋の薔薇というと淋しい感じになるがこの赤さは別な赤さだった。花というのもよく見ればいろいろある。花は色もあるし赤といってもみんな違っている。鶏頭の赤もまた独特であるしみんな赤い花といってもみんな違っている。花だけでも一つ見方が違うと別な発見がある。写生とはやはり事物をよく見る、観察することが大事なのだ。同じ赤でも見方によって赤さは百様に見えるかもしれない、それが自然の奥深さなのである。
人間はなんでも良く見ていないのである。一枚の絵を見て一冊の本を書くくらい見ている人もいる。見る力、読む力はやはり若い人より年取ってから鑑賞力はついてくる。人でも自然でもなんでも深く見て読むことができる。だから今は狭い地域に閉ざされて暮らしているから物を深く見ることに注意が向いている。あとは昔の旅を回想する、旅のときは急いでいることと、よく見ていないからあとで回想した方がいいものができる場合がある。そのためには心に残る旅をしないとあとで回想して何も浮かばないとなる。芭蕉の奥の細道は事前に歌枕としてかなり想像していたのとあとからありありとその場所が浮かんできて構成できた。歩くのだから何でも印象深くなるのである。