2013年04月02日

栄とならなかった原発-何が失敗の原因か (浪江に残された短歌(土井晩翆)から)


栄とならなかった原発-何が失敗の原因か

(浪江に残された短歌(土井晩翆)から)


浪江の地名と土井晩翆の歌
http://musubu2.sblo.jp/article/19103374.html


●浪江に残された二つの短歌の意味


土井晩翆が浪江に残した歌に地名が二つ読み込まれていた。


小野田橋新たに成りてこの郷(さと)の栄と睦(むつみ)いや増すぞよき

田尻原拓きて稲の八束穂のみのりをみるぞうれしき 晩翆


原発は栄とはならなかった。ただ原発は事故の前は栄となっていたのだ。浪江だと原発の恩恵は大きかった。請戸などは船主だったら一億円とかもらえていたのは信憑性がある。それで原発御殿が建っていたという。それが全部津浪で跡形もなく流された。それで地元の人すら罰があたったと言っている。そうはいっんても浪江町や浜通りでも福島県でも原発の恩恵は大きかったのである。
事故になって15万人以上の補償できるのだからその資金には驚いた。東電のことなどあまり考えたこともなかった。原発のこともあまり考えなかった。ただどうしても常磐線でゆくと煙突が見えると意識はするがそれほど意識もしない、30キロの距離は遠いと思っていたのだ。これが誤算だったのである。浜通りは二本松が結構田畑でも放射線量が高い、郡山も福島市も南相馬市より高いのである。
中通りでも遠いから安全だと思っていたろう。その距離の誤算があったのだ。飯館村も距離があると思い誤算していた。もちろん放射能がどういうものか知らないし知らせられないから放射能の被害がどうなるか予測する人はほとんどゼロだったのではないか?もちろんこんな大津波を来ることも予測しなかった。

まず町自体がなくなることなどイメ-ジもできなかった。戦争で焼け野原になっても広島でも東京でも復興している。そうなったときやはり茫然としていても意外と早く復興した。今回は町自体が放棄され住めなくなった。それが何を意味しているのか浪江の人もとまどうだろうし混乱している。
町自体が失うということは何を意味しているのか?その代々築かれた歴史も失う、そこで暮らした記憶も記憶も失う。土井晩翆が残した歌ももう無用のものとなり意味もなくなる。田尻原というところを開拓して実りがあり人々の喜びがあった記憶も失う。そこが古代から標葉郷としてあった記録は残っていても人が住まなくなったら原野になってしまう。双葉町は30年後にもどるということを決めたという。30年後にはやはり帰ってくる人がいて人が住むのか?するとやはり浪江の歴史でもまた受け継がれ回復するのだろうか?それはずいぶん先の長いことである。ただ日本は土地が狭いからやはり放射能が薄れれば住む人がでてくるだろう。30年後50年後は予測つかないのである。日本自体どういう状態になっているかもわからない、でも小子高齢化は予測されているから人口が増えるわけではないからそんな荒れた地に開拓するようなことはなくなっているだろう。人口が多いときは荒地でも開拓に入る人が多くいた。人口が少なくなれば便利な都会に住む方がいいとなる。


●豊かさを求めることは悪るいことではなかったが・・・・


ただ全国で2000高が廃校されるているように過疎化は深刻である。そうすると村自体が全国で喪失してゆく。何か今回の津浪でも原発事故でもそうした過疎地域に最後の一撃を加えられ村自体が消滅させたという衝撃を与えた。むしろ自給自足のような昔の生活だったらやはり第一次産業が生活の糧なのだからその土地に糧があれば残る。三陸では津浪が何度もあり今回と同じ様な被害があってもやはり人が住み続けた。それはそこに海の幸があり糧があるから住みつづけた。他に今のように働く場所もなかったのである。貧しくてもそういう自給自足の生活に甘んじるほかなかったのである。それが今はぜいたくになりできない。電気も石油も車も・・・も必要だとなる。もともと電気もなしで僻地は暮らしていたのだ。葛尾村などでは戦後十数年は電気も来ていなかったし山間部はまだ電気すらなかった。それはネパ-ルなどと同じである。そもそも僻地はそういう不便な中で暮らしてきた。日本全国がそうだったのである。


江戸時代の悲惨は影の部分は貧乏にあった。一割近くが眼病にかかり盲目の人が多かった。その他脚気とかもあり様々な病気に苦しんでいた。病気になっても医者は治せないからただなぐさめるだけだったという。それで病気は地蔵様や薬師堂で祈る他なかった。それが歴史遺産として各地に残っている。それから貧乏で一番悲惨だったのは遊女である。十代くらいで借金のために身を売らねばならなかったし肺病になる率も大きく死ぬと名もなく墓もなく使い捨てにさせられた。借金はやはり今そうだが恐ろしいものなのである。娘を売らねばならないほどの貧乏がその背後にあったのだ。江戸時代の悲惨は貧乏に尽きているしその後も貧乏の悲惨はつづいている。
だから江戸時代がすべていいとかはならない、だから江戸時代にもどれというのは酷だとなる。

戦争で貧しい農村出の青年が白い米が食べられるとか言って志願した人もいたから貧乏は戦争の原因にもなっていた。

そういう歴史からふりかえると豊かさを求めることは悪いことではなかった。では何が悪かったのか?それは豊になることで無理をしすぎた、背伸びしすぎたのである。急ぎすぎたこともある。
新幹線並のスピ-ドで豊になることを急ぎすぎたということもあった。もう少しテンポを遅くすれば原発でも安全を計られたかもしれない、早すぎたことが事故につながる。眼前の利益のみに眼がくらみ安全がおろそかにされたのである。


●経営にはモラルや経営哲学が必要だった



あわてる乞食はもらいが少ない・・・・


せいては事をし損じる



はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21


欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない

箴言-28-22



こんな庶民の諺(ことわざ)でもそれは人間が長く生きた中で庶民に伝えられた変わらぬ真理が知恵があったのだ。ともかく利益を早く得よう得ようとするとかえって得られないし「損して得しろ」というのも本当である。「せいては事をしそんじる」これもそうである。会社経営する人ならそういうことを実地の現場で会得する。経営は技術だけでは成功しないようだ。技術がいかに優れていても経営者にはなれないみたいだ。モラルとか哲学が必要になってくる。その人が失敗したのはその人は金にならないことは損することは一円でも損することはやらない、それは日常のつきあいでもそうである。この人に一円でももうかるならつきあうがそれ意外は一切やらないという計算してつきあう。一般的に利益があがらないでどうしてやるのだとなる。それは自分もそうだった。損してどうして事業がやれるのだとなる。人のことは言えない、みんなそうである。でも事業は明かにすぐに利益などでないのである。ある所で損することもあるからその損を見込んで事業を継続するほかないことがある。それであとで大きな成功につながってくる。


でもそういう余裕がもてるのは個人経営ではむずかしい。だから資金力のない人はただ頭にもうけを得ることしか考えなくなる。将来の見通しより今の利益が大事になる。それで東電の社長もコストカッタ-として社長に抜擢されたのである。その時は確かに会社でも利益があがり得したのだが事故後はとりかえしのつかない大損失になってしまったのである。これは技術者の問題より経営者の問題があったのだ。こうした昔から伝えられた格言や知恵をないがしろにしていたのである。東電のような大会社になるとやはりそれだけの資金力もあるのだから一時は損してもあとで得する経営は十分にできたのである。経営者は技術者でなくてもできるというのは経営はモラルとか経営哲学とかが必要になってくるためである。ただ今利益ああげることだと血眼になる経営は失敗する。そんな悠長なことを言っていられるのか?食うか食われるかの競争を生き抜くにはコストカットが第一だよとかなる。でもそこに大きな落とし穴があった。


●経営には全体的思考が不可欠-限界集落不用論の落とし穴


経営というときやはり政治でも限界集落の問題でも日本国土全体から思考することが欠けるとまた日本の経営に失敗することになる。一票の格差問題もそうである。そうした地方や限界集落でも衰退すると日本全土の国土が衰退するということもありそこからまた原発事故のような問題も起きてくる。日本の国土の維持するには限界集落のようなものでもそこに必要であり自然の理としてありうるべきだとなる。効率的でないからとか損だけだとか税金の無駄使いだとか都会的発想だけでは片づけられない全体の日本国土の問題としてとらえることも必要なのである。全体的思考とかではない局所的思考とか時間でも急ぎすぎると何か今回のような原発事故とか問題が起きてくる。それは個々人の人生でもそうだしそれは全体の社会にもあてはまるのだ。


現代はグロ-バル化しているというとき地球すら一つの体のように考える必要が出てくる。地球環境的視点が必要になっている。それは国の歴史をも越えた視点なのである。地震とか津浪というのはなぜ起きるのかいつ起きるのか解明されていない、地球が一つであり地球がつながっているからそれは地球環境的視点が必要になってくる。日本の太平洋岸に東南海と今回の東北沖に大きなプレ-トがあった。東北沖のプレ-トでこれだけの大きな地震があったことは東南海にも影響する。それでここ十年の間に大きな地震か予測される。それは科学的なものである。東南海プレ-トで地震か起きたとき大きな津波か起こりその六年後に東北沖でも大きな津波が起きたからその逆のケ-スで今度はパランスをとるために東南海に地震と津波が起きる予測されるのである。つまり地球は人間の体のように一つなのである。どこかが具合が悪くなれば全体に影響するのである。


 御民吾生ける験あり天地の栄ゆる時に遇へらく念へば
(万葉集6)

みたみわれ いけるしるしあり あめつちの さかゆるときに あへらくおもへば 海犬養岡麻呂


基本的には天地の栄があり人の栄がある。天地の栄が消失すればすべてが消失する。太陽が地球の栄でありマヤ文明のように太陽の光が衰えて世界は終わるとおびえたことは別に変わったことではない、太陽がなければすべての生命の栄はない、光が消失すれば生命は維持できない、ともかく浪江の橋を作ることは栄に通じていた。原発は栄とならなかったのである。故郷という天地があって栄があった。土地は恒産であり毎年実りをもたらす、そこに栄が永続する。それを失ったらもはや栄になる基を失ったのだから終わりである。これからも原発は国の栄とならないし世界的にもそうである。それは地球環境的視点からも原発は拒否されるべきなのである。原発は地球の栄にならないのである。

 
 
posted by 老鶯 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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