2013年04月01日

石神で紙漉きが行われていた (少子化で過疎化が廃校が増大している-長野県八坂村の廃校の宿のことなど)


石神で紙漉きが行われていた

(少子化で過疎化が廃校が増大している-長野県八坂村の廃校の宿のことなど)


石神の方に春日の没りにつつ雲雀鳴くかなかの女(ヒト)の棲む

紙漉きを生業にすと石神の農家に嫁ぎ春の山暮る

みちのくになお桜の咲かざりき山により住み春の夕暮

大原に老人残るあわれかな息子は街に春の夕暮

代々に檜の苗木萱浜に作ると暮らし春の夕暮

人間は意外と近くのことがわかっていない、それは人間はどこに住んでも限られた人としか直接には会って話を聞いたりできない、直接会う人は極端に限られているのだ。親戚が多いにしてもやはりそんなにいろいろな人と交われない、だからどんな仕事しているのかとか今は隣すらわからないことが多い。そもそも江戸時代でも山の方に暮らす人、町内に暮らす人、海側に塩田を営み魚をとっていた人ととか暮らしそのものが違っていた。海側に暮らす人と山側に暮らす人は感覚的にも相当違ったものになる。山側では燃料としての薪がとれたし山では山菜もとれた。薪からは炭焼きが行われて燃料となっていた。山には山の暮らしが昔はあった。そういう昔からあったものが今は希薄になった。
燃料は石油や電気だし薪を燃料とすることはない、ただ山の方の家では薪を積んでいるのがみかけるから暮らしを感じた。石神-大原-橲原-栃窪・・・などは山の人であり山の生活があった。

大原に残った病院で一緒だった老人はどうしているのか、息子は街で生活して別々になり猫と暮らしていた。近くに娘がいたからいいが大原は放射能汚染度が思った以上高かった。それで子供のいる母親は避難していないという、するとそこは老人だけ取り残された村となってしまう。ただもともと跡継ぐものがいないと嘆いていたから農地が保証された方がいいともなった。老人だけでは田畑を守るのはむずかしいからだ。萱浜では檜の苗木作りをしていたと放送があった。代々にそうした生業があるところは村が維持できる。

山に陽が没るとき山の情緒を感じる。浜通りは海があり山があるということで恵まれていた。山は低いにしろ山の生活もあった。相馬市の山上には紙漉き沢があるから紙を漉いていた。紙漉きには山からの清い水を必要とした。紙の素材となる木もあった。それで生業となっていた。この辺でも山側は山の清水を利用して井戸水を利用している所が多かったのだ。知り合った女性は隣が放射能で区切られて補償金がもらえる、自分の所はもらえないとか言っていた。ただ石神には小学校は二つもあった。それなりの人口があった。でも入学する人は数人とかになっているという、上真野小学校ではもう一人とか入学するものもいなくなってくる。つまりそうして全国で廃校になる学校の数がふえている。

長野県の廃校が宿舎になっている宿に泊まったことがあった。教室は寝る場所となっていた。校庭が見えて山の奥でありなんとも不思議な感覚になった。その寝た場所が教室だったのである。山また山の奥に学校があること自体不思議に思った。この辺の山とは違いあの辺の山は山が重なり奥深いのである。あういう所に生まれて育った人もいる。日本は地形が複雑であり多様な環境に住んでいる。
長野県の八坂村というのは本当に坂が多いのである。自分は自転車でその坂を上るのに難儀した。
確かにあそこは八坂村だと思った。

八坂村坂越え村々木槿かな

あそこの小学校だったのかまだ子供たちの歓声が教室からひびているようでもあった。木造の校舎でもあったからだ。廊下を歩くときしむのである。コンクリ-トだとそういうことはないから木造校舎は思い出として残るものだと思った。

山には山の暮らしがあってはじめて山らしいとなる。でも現代はそうした生活は失われた。どこも山の村は過疎になり苦しい。だから廃校になるのがいたるところにある。その廃校を利用して住んでいる人もいる。自分くらい旅したものはいない、ただそれか思い出すときあんなところにも行ったなとなる。あそこはなかなか行けない奥地だった。

この辺はそうした山の暮らしや米作りや畑も作らないとか魚も試験操業だとか一体どうなるのか?
暮らしがなくなっていたきにさらに暮らしそのものがなくなったらその土地の魅力は喪失する。
みんな会社員や工員になったらどうなるのか?それは東京などの都会と同じになるだろう。
一面がソ-ラ-パネルになっても何か景観がそこなわれる。風力発電もそうだろう。でも花畑にたら美しいことは美しいが食糧にはならない、花を見て暮らせるのかともなる。自分の場合は花を見て暮らしてきたから意外と違和感がない、花がなくなったわけではない、自然が全部なくなったわけではないのだ。放射能は花には影響しなかったのである。

ともかく昔の生活をふりかえるのが郷土史である。人はその場その場で生きる。松川浦で漁師をしている人は角田から嫁をもらった。それで魚などをくれていたから今回の津浪で難儀したが助けられたという。経済関係は実際は何かのときに助け合うというためにもある。部族間でも何かあったとき助けてもらうために物々交換があり商業があった。この辺でも一時はもうモノが入らずモノを運んでくれる人が助けてくれる人だったのである。現代は地域の生活が希薄になった。みんな会社員でありこの辺でもそんなに東電で働いていたのかと地元にいても知らなかったのである。浪江辺りならわかるが原町とかなると遠いからそんなにいるとは思わなかった。やはり金になるということで働いていた。現実問題として農業だけではやっていけないというのが口癖であり跡継ぎがないというのもそうである。生活そのものがその固有の土地から遊離してしまったのが現代である。それにしても東電があんなに巨大な会社だとは思っていなかった。市町村いくつも買えるような資金をもっていたことに驚いたのである。今までの地域に根ざし生活からそうした巨大会社が入ってきたときその差がギャップが大きすぎたのである。結果として巨大会社に地域がのみこまれてしまったのである。怪物的会社だった。会社社会というのはやはり何か人間を歪めるものとしてもあった。そもそも原発事故になる前から地域の生活が根こそぎ変えられていたということもあったのだ。

郷土史研究といっても自分の住んでいる人のことでも知らない、まず昔からさかのぼってその土地のことを考えることが常に必要なのである。それをしないから津浪の被害も増大したし原発事故も起きる要因だったのである。


廃墟と化した村

長野県の廃村集落探訪 旧八坂村(現大町市) 槍平
http://blog.livedoor.jp/urayamaex/archives/4134013.html

大町に出たのは覚えている。こんなところもあったんだ。何かこれもみると深い哀愁があり悲しさが満ちてこないか?これは原発事故で町から人が消え空家化した情景ともにている。自然の中に人の営みが埋もれ消えてゆく、雪が深いから雪にも埋もれてゆく・・・大原にも三軒廃屋があり幽霊屋敷のうよになっている。人が住まなくなっても人が住んでいたところには何か人の霊が離れがたく残っている。それは津浪の跡の風景ともにていた。庭には必ず二つの木が離れがたく立っている。それが老夫婦のようにも見えたのである。

八坂村の廃校の宿

犀川のうねりつたぎつ 流れを沿い下り 
大岡村や生坂村や 八坂村の山深く
あまた咲きしは木槿の花 その花におおわれ
我は入りにき 今日の一夜の宿はあわれ
廃校となりし村の 小学校の改築の宿
ここに六年生の教室と なつかし泊まる卒業生
窓辺に流れのひびき 校舎の廊下をきしみ歩みぬ
窓辺に寄りて外ながむれば 赤とんぼとぶ山の学校
かすかに虫の音や 校舎は古りて生徒はなしも
その山の道の辺 刈り入れの農婦ありにき
道の辻には地蔵や 昔なつかし何語る
童の遊ぶ声もひびかむ 野に山に川に
祭りの太鼓も笛の音も 野に山に森に
村の墓所には女郎花 我がしばし佇みぬ
山々は打ち重なりて 村は閉ざされしかも
八坂村の坂をし上れば 誰そその墓の主や
我を見送る影のありや 我は汗かきかき坂上る
ああ また来てくれと その影は分かれを惜しむ
ああ なつかしき日本の国の 昔の村を思うかも
旅人はるか大町へ 坂を上りて去り行けり
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