
我が生きて街のにぎわい春の夕
身に浴びぬ5月の陽光血の湧きぬ
ともに生く年月短く春は逝くもののあわれの身にしみるかも
ボケになる認知症になる老人の問題もそうだが人生の終末期の人間の問題がでてくることなのだ。人生の総決算がでてくる。犬ですら老犬は認知症になるとプログに書いている人がいた。夜吠えつづけたり人間と同じような症状がでてくる。人間と同じく犬も死にたくないのだ。動物は死を恐れないというが嘘である。隣の犬死ぬ三日前に悲しい声で吠えつづけた。それは死にたくない死にたくないという断末魔の叫びだった。犬がボケ犬になるのは例えば仲間と一緒にいた犬が死ぬとボケになったという。これも長年連れ添った妻がなくなったとか身内のものが死んだとかが原因でボケになった老人が多いという。老人問題は人間の最後を迎えるときに起きてくる人間特有の最後のあがきなのである。
末期の眼でみる時、この世の物は全然違ったように見える。何気ないことが何か特別な意味を帯びてくる。もののあわれを深く感じる。なぜなら死ぬということはもはや人であれものであれもはや二度と合わないとか見ないことになるからだ。最後の見納めとなるからだ。青年時代にはこんなことを考えないが老年はみんなそうなる。例えば春の街のにぎわいのなかにあることなど当たり前のなのだがこんなふうにして街を歩くのもなくなる日が近いと感じた時どうだろうか?ガンであと一年とか宣告されたらどうだろうか、街をただ歩くだけでなんともいえぬ感慨を覚えるのだ。生きているということだけが何か貴重に思えてくる。だから老年の俳句でも短歌でも文学などは深い意味をおびたものとなる。死というものが身近になるから生というものが限りなく貴重ないとおしいものになるのだ。
老人を知るということはこの人はやがてまもなくこの世から去ってゆく、その終末の人生最後の時間をともにあるということなのだ。それが根本的に普通の人間関係と違っているのだ。認知症になると早く死んでくれとなるがやはり人生最後の時間をともにするということでは同じなのである。
五月になり太陽の光をいっぱいに浴びた。血がめぐりわきあがる、光は人間の体に影響し精神にも影響するのだ。光は健康の基であり光は薬より人間をいやし活力をもたらすのである。