2013年03月05日

春になる八沢浦の変化 (変化しつづける津波の跡の風景)


春になる八沢浦の変化

(変化しつづける津波の跡の風景)

kannnonnn111.jpg

larasuniha1111.jpg

numafutatuuu111.jpg
クリック拡大!

numafuyusss111.jpg

yasawaninenn.jpg

nekoyanagi111111.jpg

nagomiii11.jpg


争うや東風(こち)に北風浜通り
東風吹いて海に向き立つ観音像
津波にも残れる家に猫柳
春日さし残れる家のなごみかな
津波跡沼の二つや冬の暮
松二本寒の戻りや八沢浦
沼の岸冬芒かな松二本
春北風(はるきた)や坂越えて来る街中へ
喫茶店相馬に来て春の雲


八沢浦海鳥飛び来ぬ春の朝雪の残れる遠山を見ゆ

八沢浦寥々として松二本残りてあわれ春北風(はるきた)の吹く
八沢浦二本の松や春来るも悲しみ深く二年の過ぎぬ
松が枝折れてとまれる烏二羽津波の跡や海老の浜かな

春北風(はるきた)に森の騒ぎて城跡や津波の被害のなお癒えざりき

panorayasawa1111.jpg

panorayasawa2222222.jpg
パノラマ写真


海老浜に海を向き観音像が建てられた。慰霊の像として建てられた。津波観音ともなる。他でも津波で死んだ人を供養するものが建てられているだろう。おりしも今日は朝に行ったのだが最初は東風だった、やはりこれくらいあたたかくなると東風は吹くし3月になれば東風が吹く度合いが増えてくる。今年は寒かったがそれでも今日は本当にあたたかい、東風を受けて観音様が海を向き立っているのもにあっている。巨大な観音様が各地に建てられているがそれはあまり意味もない、観光のために建てられていた、客集めのために建てられていたのである。そういうものには意味がない、金をかけても意味がない、この観音様はそういうものとは違っている。津波で死んだ人たちを弔うという人々の祈りがあって建てられたものだからである。だからこの観音様には津波で死んだ人たちの霊が宿るともなる。今回の津波で死んだ人たちをどう供養していいかわからないということがあった。これは一つの供養となるだろう。津浪の被害の記念碑なのである。それは末長く語り継がれるものである。

ただ人間は忘れやすいのである。四〇〇年前の慶長地震の津浪も今回と同じ様に大きかった。それを記念した津神社が相馬市の松川浦にも鹿島区にも原町区の小沢辺りにもあった。でも忘れてしまっていたのだ。何の謂われある神社かからなくなっていたのだ。やっぱり四〇〇年となると長い、これから四〇〇年すぎたら一体この辺はどうなっているのか?これも想像もつかないのである。


松が倒れた折れた枝に烏が二羽とまっていた。何か絵のようである。未だに津浪の跡の不思議な光景がつづいているのだ。八沢浦はまた変わっていた。二本の松が支えあうように立っている。道は新しくなった。一時あそこに自衛隊が鉄の橋をわたしていた。今はきれいな道路となった。八沢浦の海岸に近いところに何軒が家があったがあそこは一番危険だった。高潮で潮水に浸されたのは最近だった。そういう危険な場所だった。海老浜は高いからそういう危険を感じなかった。八沢浦の被害は海老や烏崎や磯部のように凄惨なものを感じなかった。実際は死んでいる人がいるのに何だ、美しい入江が蘇ったということで批判してきた人がいた。確かに死んだ人がいたが八沢浦の被害は大きくなかった。ガレキの山ともならなかった。意外と近くの家でも被害が少なかった。津浪が見えてから後ろの山に逃れて助かった人がいる。百メ-トルくらいしかない感じでも被害が少なかった。地形に影響されたのである。前に山がありそれで津浪の力がそがれたのだ。津浪は地形の影響が大きいのである。前に何も障害物がなければまともに津浪を受けて磯部のように壊滅した。

春日がさして残っている家を見てほっとした。津浪が来てから家でも見方が変わった。残り谷(家)という地名が残ったように津浪は根こそぎ家が流されて死んだものと家も残り家族も助かった人との差が大きいのである。一方はすべてを失い一方は助かったとなる。

八沢浦はもともと入江だった。明治になって開拓された。だから自分は不遜でも津浪のくる前からここが入江だったらどれだけ美しいだろうと想像していた。ここは狭いからイメ-ジしやすかったのである。右田から烏崎から大内から塩崎まで潮水に一時おおわれて海になった。これだけ広いとイメ-ジしにくいが万葉時代は海だったのである。その名残として八沢浦は明治まで残っていたのである。だからここが本当はかなりの名勝の地でありみちのくの歌枕の地だった。

ここはそういう美しい場所だったし開拓されてからもそういう面影は残っていたしイメ-ジできた。ただ人間の想像力には限界がある。今回の津浪で実際にかりてり奥まで水にひたされたことには驚いた。奥深い入江は四国や瀬戸内海にはあるが福島県にはなかった。いつも荒い波がうちつけていたので入江が生まれ春の光に波が光って岸辺に打ち寄せたのを見たときは信じられない、奇跡のようだった。ここはガレキの山になっていなかったのだ。だから批判はあってもそういう美しいものが再現されたのも現実であり津浪の一面だった。津浪が美しかったなどと報告している人はいないし写真もほとんどない、ただ凄惨な場面ばかりだった。だから津浪にも死者が出ても美しいものが再現したのである。それでこの八沢浦に残された古歌をリアルに鑑賞できた。


八沢浦八景


八沢浦の夜雨  磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ

遠山の暮雪     高瀬さす八沢が浦の夕波に色をみだせる雪の遠山
行沼(なめぬま)の晩鐘 行沼の蘆の間ひとり歩み居ればあわれいづこに入相の鐘


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
http://musubu2.sblo.jp/article/54362194.html


磯桜ということ自体、ここが入江でなければでてこない言葉である。入江にさざなみのうよに浦波がよせてきて磯桜がある。浦波はこの辺では見られない、入江の穏やかな波は見られない、荒波がいつも打ちつける荒寥とした風景だった。遠山の暮雪にしても朝に雪が遠山に残っていた。

八沢浦海鳥飛び来ぬ春の朝雪の残れる遠山を見ゆ

この山影が入江に写るからまた絵のように美しいものとなっていた。 夕波がたって色がみだれたというのはまさに雪の遠山に帰ってきた舟によ写った影がみだれたのである。行沼の晩鐘というのも
沼になっていたことでリアルにイメ-ジできるようになったのである。

ともかく今日は海から東風が吹いてきた。それからすぐに春北風(はるきた)になった。春北風は春の光のなかに吹く比較的あたたかい風である。今の季節は二つの風が交互に吹く、最後は相馬の城跡を回って帰ってきた。この辺は何か津浪原発事故で戦争のようにもなった。浪江が小高の出城が落城したようになり相馬の本拠地の城が最後の守りの城となった感じになる。小高の人が帰りたくないというときやはり浪江が封鎖されているからその影響もある。
この津浪原発が一段落するのには十年はかかる、神戸でも十年かかった。もう十年は帰れないとか覚悟するほかないのだろう。十年たって何かやっと十年一昔で落ち着くのではないか?そのくらいの大災害だったのである。
posted by 老鶯 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/63361953
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック