

争わぬ二輪草にスミレかな
夕蛙アパ−ト暮らし老母かな
アパ−トやつばめ飛び交い部屋にいず
アパ−トには人が住んでいる気配がない、日曜日辺りにちょっと人がいるのを見たのだがその他人が見えないという不思議である。確かに人は住んでいるのだが住んでいる生活が見えないのだ。洗濯物を干していたりするからわずかに人がいるのかとも思う。アパ−トは独り者とか若い夫婦でありここには子供がいないから余計生活の気配がしないのかもしれない、昔の長屋とかとは違う。人間的交流はゼロである。おそらく寝起きの場所であり暮らしの場ではないのだろう。何かもう少し暮らしの匂いがしてもいいはずだがそれがないのだ。隣から何か食事の用意して匂いがしたりしないのである。というのはおそらく外にいる時間が長くアパ−トには寝るくらいの場所になっているのかもしれない、なんとも不思議である。一万くらいの田舎のアパ−トなのだから都会のアパ−トとは違うのである。外にいる時間が長いことは確かなのだ。
とにかく二つの家を行ったり来たりする生活になるとは予想もつかなかった。その間に自分の家の墓の前を必ず通っているのだ。嫁と姑であれなんであれこの世の中望むのは争いのない世界である。人と人の争いは当人だけではなく回りも巻き込まれ苦しめられるのだ。つくづく人間に災難は多い、工場の事故で死に戦争の食料難、水害は二度、病気の難、交通事故死・・・そして思いもよらぬボケの難が我が家を襲い家庭は分裂したのである。
まあ、今はそれでもそれなりに落ち着いてはいる、だから夕蛙とかの俳句も作っているのである。俳句であれ短歌であれこうした家族が認知症になった日記はなかなか書けない、まだ軽いから書けているのだ。重度でも書いている人も結構いるが書くことは余裕がないとできないのだ。それでも最悪の状態が最初にきてプログで書いてきた。つくづく平和とは幸福とはなにも災難がない世界である。人間には思いもよらぬとんでもない災難が待ち受けている。今は災難のない、平穏な暮らしがあればいいと思う。それが幸福なのである。アフガニスタンで少女が一番望んだことは戦争のない世界である。それが一番の幸福になっていた。戦争は外部からではなく家庭でも内部からも起きてくるのである。
このグラフィックソフトはあまり利用していなかった。新しいパソコンになって利用した。漢字は絵だということがわかる。こうしてペイントソフトで遊んでいると絵が描けなくても抽象画ができるのだ。ソフトによって違ったものができる。効果というのがいろいろみな違っているからだ。パソコンはもはや欠かせない道具になっているのだ。