
その人に二度は逢わざる春は逝く
旅に明け暮れた私が一日も留守にできないというのは皮肉なのか?本サイトで書いたが旅で出会った人を思い出した。その人は遍路乞食の人と隅田川の川岸でテントで暮らしていたホ−ムレスだった。これは一回だけあって会えない人だった。この二人とは短い時間だったが結構話したのである。こんな人がこの世にはいるもんだと不思議だった。旅ではそういうことがあるのだ。今特に旅に行けないから思ったのである。
都会のホ−ムレスとホ−ムレス遍路はあまりに違っていた
http://www.musubu.jp/jijimondai27.htm#ho
認知症になぜなるの?どうしてなる人とならない人がいるのか?この原因は一様ではない、これが原因だというものはないところにボケのむずかしさがあるのだ。どうしても自分の家族は性格的にはなりにくいのになぜなったかわからない。ただ保健婦であるときは性格的に向いていたし回想法で話するのは保健婦と戦争で従軍看護婦していたときなのである。そのときは苦しくても印象に一番残っているから話しているのだろう。その後保健婦をやめて年金の事務に移ってからの話はしていない、その事務を何年かして役所をやめた。やめてからはなんか役割喪失でありたいして仕事もせず家事もあまりしないのでグ−タラボケだったのだろうか?それが85歳になりボケになった。公務員が一番ボケになりやすいといのは人間的に創造的なところがないからだという。教師もなりやすいのはこれらは一旦就職すると身分も保証され無能でも一旦試験を通れば退職まで大過なく勤める仕組みができているからである。それでボケ安いのかもしれない、家庭に障害者だとかできそこないの子供をもって迷惑をかけさせられている親はボケないという、それはたえず子供を心配してボケていられないからだというのも皮肉である。ボケを世話する人もボケないというのは自分が書いてきたようにどうしたらボケを進行させないか、あれやこれや努力せざるをえなくなるから頭も使うし体も使うからそうなるのである。ボケの原因は何もさせられない、役割も与えられない、家事すらもしない、楽隠居が一番ボケやすいというのは本当なのだろう。そういうことで性格的にはまったくなる要素がないのにボケになったのかというこじつけは成り立つがよくわからないのだ。
いづれにしろ団塊の世代が退職したらまた大量のボケ老人、認知症の患者がでる。これはとめられない、どうしても人口の一定比率ででてくるのがボケである。原因をいろいろ調べてもそれがすべて正確にあてはまるとは限らないし本当のところはわからないのがボケなのだ。回想法−作業療法(家事、庭いじり)−地域人間コミニケ−ション−この三つは効果的でありそれから自尊心の回復も行われたのでまだらボケに留まっている。家事をして一応主婦の役目を回復しているからだ。施設にはいると自尊心は奪われる。介護される病人を収容するのが施設であり家庭や地域や社会でもっていた役割は奪われるからだ。まだらボケは正常と異常のなかを行き来している。ただこの正常と異常の見極めがむずかしいことがある。正常な時の判断ができないことは確かである。理性とかが働かなくなっていて自己中心になってしまって他者を省みることがなくなる。嫌なことは嫌だとストレスをためないからかえって長生きするという人もいる。嫌な上司でも同僚でもお客さんでも正常な人はがまんしてつきあい自分を殺して仕事している。認知症になるとそれがなくなりまったく自己本位になってしまうのだ。このまだらボケは正常な部分がかなりあり社会生活にそれほど不適応とはならないのだ。だからこの状態を維持することが大事だというのは確かだろう。
人間の存在の意味は創造を発揮しろという神からのメッセ−ジがある。公務員や教師や事務員など創造性を発揮できない世界は将来ボケに通じているというのは頭の活性化が行われず脳が死んでゆく状態になっているからかもしれない、しかしこれも一様にあてはまるわけでもない、そもそも社会に創造性を発揮して生きられる仕事は少ない。決まりきった仕事が普通は多いのだからそういう人がみんなボケになるのかとなる。芸術家がボケにならないというが芸術を仕事にできる人は極端に少ないのだ。社会の中ではそれは微々たるものである。芸術はそもそも仕事にならないし金にならないのだ。仕事自体感性をそこなうものが多すぎる。感性があるとかえって仕事しにくいのだ。その人個人の感性を活かせる仕事は非常に少ないのだ。現実自分は芸術を追求しても一文の金にもならない、かえって金がかかるのである。それでも人間の人間たるゆえんは創造を追求するところにある。これは金にならなくてもやりたいのである。それ自体が面白いし生きがいになるからだ。それが文明一般の仕事に欠けているから長生きになってもボケて悲惨な最後を迎えるとなってしまう悲劇がある。文明は長寿社会に適応できる人間を作り出さないボケを作り出す非創造的なことが多すぎるからその結果として認知症を大量に生み出すとなるのか?長寿を実現してもそれに対する備えある社会ではないことがあったのか?医学で長寿が実現してもボケがふえては何の意味もないことになるのだ。ボケにならない、ボケがふえないような長寿社会にならない限り文明は幸福を人間にもたらさなかったのである。
新しい歌を主に向かって歌い、
喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ(詩篇−33−3)
新しい歌を歌わないものは滅びる、それは新しい音楽でもあり様々な分野で新しい事が起こることなのだ。人間の人間たるゆえんは創造にあるからだ。