2013年02月03日

鬼やらい(健やかな体で鬼やらいをした-人間は健康が一番大事、特に老後はそうである)


鬼やらい

(健やかな体で鬼やらいをした-人間は健康が一番大事、特に老後はそうである)

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この道を行きつ見守る冬芽かな


I keep on looking
buds in winter
in my sight
in my homeland


皓々と無情の跡や冬満月

土台のみ津浪の跡や冬満月
冬の灯やここに移らず一軒屋
二年過ぎ仮設の隣冬灯かな
我が里にはや咲きいずる犬ふぐり
健やかに豆にぎりしめ鬼やらい
我が家や五つつの部屋を鬼やらい


丸き菊姉を思いて墓に挿す微笑みたまわむ年あらたまりぬ

墓隣話すもあわれ同じ町年あらたまりて話しけるかな
この池の氷の溶けず一本の松によりつつ帰る夕ぐれ


ここ何日かの変化を俳句短歌にした。昨日は冬満月が美しかった。今日は星が美しい、昨日はあたたかくイヌフグリが咲きだしたから季節的に立春になる。東北は西よりは一か月は遅れる。なぜなら東京ではすでに梅が咲いているからだ。俳句の季語は西が京都など中心に作られたからあわないものがある。季語はだから地域ごとにそれぞれの季語もある。季語も膨大だいだからすべて覚えられない、冬の灯というとき一軒家があるとしてああ、ここに住めて良かったとか津浪で良くこの家は残ったなとか思うのもこの辺である。残り谷(屋)という地名の実感は津浪を経験しないと納得がいかない、人間は経験しないとわからないことがいろいろある。津浪の跡にはただ冬の月が光り無情である。ただそこに非情の自然の美が映えている。仮設も二年まもなく二年になる。隣合い仮設に住むというのもどんな感じなのか不思議である。まだ長くつづくとなると仮設もなじんだものになる。


今日は鬼やらい、節分である。自分が豆をまいた。部屋が5つつありまいた。ともかくこの6年間は自分は本当に苦しかった。人間は長男となるといつか否応なくその家の責任を負わされる。嫌だといっても負わされる運命にある。両親とかの介護もそうだしその他責任を負わされる。別に長男でなくても50以上になったら誰も大きな責任を否応なく負わされるのだ。それが厳しいと言っても逃れようがないのだ。その間に自分が二つの病院に入院したのだからこのことが自分が病気だったことが一番辛かった。その病気の間でも自分をみる人はなく責められたのも辛かった。病気のときまで責められるのかとがっくりきた。医者にも看護師にも責められた。身よりのない人は病院ほど恐い所がないと実感した。ただ普通の人でも介護する人がいても今は病院は恐いころである。死ぬにも死ねなくなる恐さがある。ということはいつまでも苦しみつつ地獄を生きさせられる恐怖である。ただいつ突然倒れたりするかわからないから恐怖なのである。

今は身体障害者でないし体は健康である。別に旅行もできるし登山でもできるだろう。そういう状態にもどったことが大きかった。健やかであるからこそ鬼を払うことができる。病気だったらどうにもならない、その弱さにつけこまれる、人間の尊厳は失われてしまう。介護してくれる身内がいればそういうことはないがないものは病気ほど恐いものはない、だから病院に入る前に死ぬか野垂れ死の方がいいと思った。動物は誰にもみとられず荒野に死んでゆくから威厳が保てるのだ。

人間は健康ほど大事なものはない、どんなに金があり才能があり家族に恵まれたとしても病気になったら最悪である。徳田虎男氏とか見たらあまりにも悲惨である。大病院をもって最高の看護を受けてもあれを見たらいかに病気が恐いものがすべて台無しするものが一見してわかる。巨大な病院をもち医者も顎で使いてもどうにもならなくなるのが病気なのである。病気になればどんな人間も弱くなる。認知症も脳の病気だから人間が崩壊するからこれも恐い、未だに信じられない病気だった。
人間が何か特別の罰を受けているようにさえ思えた。


今日はやっと墓参りできた。ともかく家事をやっているだけでたちまち時間が過ぎる。家事でも墓が二つあり墓を掃除したりするのも必要であり手間である。墓も近くにないと荒れてしまうだろう。
現実無縁墓ではないが一年に一度も来ない墓がある。そういうものも増えてくるだろう。ただ墓参りするとそこにやはり死んだ人がいる感じがするから不思議なのである。もしそこに墓がなければ死んだ人はどこにいるのか?墓がない森林葬とか海とかに灰を捨てるにしてもやはりどこかに墓がないと死者を偲ぶことはできないのである。

姉は太っていて男勝りだった。自分は女性には本当に詳しくない、知らないのだ。ただ若いときはかわいいとか美人だとかが第一の価値になる。でもまた女性の価値も常に変動している。年とともに価値が変わってくるのだ。50すぎたりしたら美人だとかかわいだとかではない、思慮分別のある賢い女性がかえって価値がでてくる。年相応の価値がでてくる。その時ただかわいいという価値はなくなる。かわいだけで子供のようで何もできない、気がまわらない思慮分別がない女性は価値がなくなる。この女性は人形さんみたいだけどこれもまた50以上になったら社会的責任をもたされる。だからかわいいだけではまた悲惨なことになる。誰かが夫でもしっかりしていればいいが災難がったりすると責任をやはり負わされるからかわいいだけでは責任を負いきれなくなる。思慮分別のある女性はそんなにいないだろう。そういうものに若いときは価値を置かないからあとで失敗したとかなる。美人だとかかわいいとかいう価値も年とともに変わるのだ。美人はあきるというのも本当だろう。女性についてわからないにしてもネットなどで調べるとそんなものなのかと実感ではないにしろ理解できるものがある。

節分の鬼やらいの鬼だが最近鬼とは誰でもなりうる。何かの契機で人は鬼になる。ひどい犯罪にあったら必ずその人も復讐心に燃えて鬼となってゆく。非情な仕打ちを受けた人はまた非情な仕打ちをする鬼となる。虐待されたものは虐待する鬼となる。そういう鬼に自分はここ6年間責められてきたからこれは実感である。人間の心にこそ鬼が住み人間には天使にも悪魔にもなる。悪魔といっても外部にあるのではない、人間の心にあるのだ。一念三千の心が人間にはある。だからこそシェ-クスピアのような作品が生まれた。一人の人間があれだけの心をもっていたから書けたのである。人間は自分もだが鬼にも悪魔にもなりうる存在である。ただ自分の場合そういう契機がないだけだったのである。これだけ非情の仕打ちを受けたから自分は一時は鬼の心になったのである。ただその心も常に変化しているのだ。鬼の心から仏の心にもなるのが人間の不思議なのである。


ともかく今年は春になったらかなり活動できる。ただ介護は継続中だから一日の旅にも出れないのである。介護は今は本当に長くつづきすぎるのである。この時間のロスも大きいだろう。40代とかで介護になって仕事をやめたりした人がいるがそれは貴重な時間のロスなのだ。ロスが大きすぎるのだ。自分の場合は60才まで自由に旅したのだからあきらめられるが他の人はあきらめきれないのである。

 
 
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