2013年01月30日

原発被災地域には現代の問題が極端化して起きた (高齢化、金万能社会の歪みなど)


原発被災地域には現代の問題が極端化して起きた

(高齢化、金万能社会の歪みなど)


●被災地域は高齢者が多かった

津浪や原発事故ではいろんな問題が生じた。それは現代の社会の問題が露骨に象徴的に現れた。今回の津浪や原発事故の被害にあったところは農業漁業関係でも特に高齢化がすすんでいた。津浪で死んだのも高齢者だった。原発事故で避難指示があったときもう年で出れないと墓に入りますといって自殺した100才近くの人がいたり他にも老人で自殺した人がいた。そしてこの高齢化の問題はその後つづいている。原発被害地域では若い人が流出して老人だけが取り残されるという問題が生じた。
これも高齢化の問題が極端な形で現れたのである。老人は金かかるだけだから死ねとか若い人がただ負担にだけ思っている時代である。とすると極端になると老人なんか世話していられないよとなり

その住んでいる場所から若い人がでてゆくことになる。それが現実化したのがこの辺だったのである。特に放射能は子供に影響があるから子供をもっている若い人が流出した。老人は別に放射能の影響はそんなにないから残っていいとなっても若い人がいなくなると生活できなくなる。姥捨山になってしまう。つまり超高齢化社会で現実に姥捨山となる状態がこの辺に生じたのである。飯館村などでは老人は住んで帰りたいとかあってもそこは姥捨山だから住めないと言っていた。病院もス-パ-もなにもない所で生きることはできない、もともと病院はなかったけど診療所はあった。そういう不便なところでも環境がいいから外部の人も都会から入ってきていたのである。

高齢化社会だから話題は老人になることが多い。何しろ数が多いからそうなる。団塊の世代が若いときはやはり数が多いことで話題になることが多かった。数が多いというこは社会にそれだけ影響があるからそうなる。だから団塊の世代は老人になっても話題になり影響が大きいのである。

今仮設住宅でも津浪の被害地でも原発事故の被災者でも高齢化の問題がある。仮設に入っている人も高齢者が多いのである。田舎に来ればわかるけど本当に老人が多い。子供はわずかで老人の数が多く繁盛しているのは病院だとなっていた。その問題が津浪原発事故でもひきづっている。つまり若い人かいないから町の復興しようにもできない、小高区でも80才くらいの人が集まり相談していたけどこれでは未来はにないないのである。そして老人は小高なら帰れるのに帰りたくないというときすでに町を復興させる気力もなくなっているからである。すでに相馬市の長屋風住宅のように定住する老人ホ-ムみたいなものを作ってそこに住みたいとなる。原発の補償金で補償されて住みたいともなる。
とても60以上になると新しいことや一から始めることはできなくなる。実際に農業の担い手も60代とか多く跡継ぎもいないところが多かったのである。すると補償金で補償された方がいいとなるのもわかるのである。


●補償金でもめるのも金でもめるのも現代を象徴していた


現代は金の社会であり金、金、金で金が頭から離れない時代である。その金の社会ということも仮設に住む人が外から国民の税金にたかるやつらだと非難されるようになたった。体育館などで苦しい生活をしているときは外部からも同情があったが今は補償金をふんだくるだけの人たちだと非難されている。だからあんなところに行きたくないともなっている。ということはもう同情もしないし応援もしたくないということも心情的になっている。でも国の責任もあるから補償金はでる。そこで補償金だけが今は話題になり肝心の国の責任者や東電の責任者が罰せられない、注目もされないようになった。国民の関心は巨額な賠償金をとる避難者に向けられているのだ。そのことで外部から嫌がらせとかが起きている。いわきでも起きたし東京でも福島ナンバ-の車が傷つけられたりとかなりの反感が生まれているのだ。


避難した市町村でも仮設に住んでいる避難した人たちは過分な補償金をもらい毎日パチンコやその他遊んで暮らしている。病院はこんだり避難した市町村で負担が増えているのに避難した人たちが金があるから遊んでいるだけだと非難される。最初はそれでも仮設に入っても同情されていたのである。だんだん補償金のことがわかって非難するようになったのである。ただ避難した人たちにも言い分はある。故郷を失い辛いものがある。ただ現実問題として外部からあいつら補償金でただ遊んでいられる、こっちはあいつらのために働かせられているというふうに見られているのだ。そういうことだけが今になると目立ってきたのである。それで嫌がらせや差別が生まれた。
実際に一か月150万だ百万だ80万をもらっているとなるとこれは何なのだとなる。避難者を引き受けた地域ではその金に驚く。そんな金あるなら避難した地域にも分けるべきだともなる。もらった補償金を住んでいる地域にも分配しろともなる。


昨日も書いたけど現代は人間に世話になるより金や機械に世話になる感覚が強い時代である。だから金さえあれば何でもできる,金が万能のようになっている社会である。それで自動販売機を例にとったけど機械があり金があればまにあう社会の象徴だった。自動販売機は一種の魔法である。
金を入れれば何でも願いがかなう魔法の機械なのである。機械とはそうした便利な魔法的なものをもっていたし人間はそれを望んだのである。


お金をいれてください


この機械は何でも願いをかないます


でも実際はそうはなっていなかったしできるはずがなかったのである。逆に金をもっていることで回りの人から急に金持ちになった人のようにその金が羨望の的ととなる。体育館のようなところにいるときはかわいそうだと国民みんなが同情していたが今は補償金をふんだくるだけの人たちだと見られ同情もされなくなったのである。つまり多額の補償金をもらえることでかえって同情を失い羨望やねたみの対象となってしまったのである。一見金が入っていいように思うがそういうふうに簡単にはいかなかった。金が万能ではあり得ないのである。人間の価値は金だけでは決められないのである。


●金の力が大きくなった社会は互いに人は協力しない


現代の人間は人情がないとか金だけを追い求める冷たい人間になったというときそれは人間にもいろいろあり個々の性質とかの問題なのだろう。これは別にその人の性格や性質や人の良さなど生来もっているものがある。でも現代は一般的に金の力が万能化したような時代でありそれから逃れることはできない、だから金を求めることが悪いとか金がすべて悪いとか否定できない、そういう社会にしたのは便利でもありグロ-バル化など広い範囲で便利に豊に生きるということでも金の力が増したのである。だからそれをいちがいに否定はできない、でも金というのもが万能ではないから問題が起きる。自分の一身上に起きたことも金にからむことでありここ6年間で経験したことは今でも信じられないのだ。


最初にお前の母親は金もっているのだから金でめんどうみてもらいと青筋たてて狂気のようにわめいて去っていた親戚の人がいた。親戚といっても交流がなかったのだからしょがないにしても冷静にふりかえると「金でめんどうみろ」というのは今の世の中を象徴していたのだ。すべてが「金でめんどうみろ、金でかたづけろ、金で解決しろ、・・・」と金が何でも解決してくれるとなっているのが現代である。何か困ったことがあったら金で解決しろ、金でめんどうみろとなりその本人は何もしないのである。結局老人になると家族でも施設にあずけるのも金だとなり金で他人にめんどうみてもらいとなる。それから若い人は金のない老人は死ねとかもわめいている。それも金ですべてが決められる社会だからそうなっている。個々人の問題ではない社会全体がそうなっているのだ。確かに昔から金が力をもっていたことは確かだが現代ほど金が万能化した時代はないのである。


もう一人の手伝いとかヘルパ-とか家に入ってきた人はさらに極端化していた。最初から「金をくれ」と入ってきた。それは冗談だと思い聞き流していた。それは冗談ではなかった。本気だったのである。その人はその通りに強盗のような人でありそれを実行した。こんな人がいるなど想像もできなかった。田舎だからそんなことを思わなかったのである。でも現代はこれほど金しか念頭にない社会になっていたのである。これらは極端にしてもこれは一般的な傾向なのであ。自分の場合は特に極端化して事件が起きたのである。金の力がこのように万能化した社会はここまで来ているのだ。


人情とか甘い同情を期待することはできない冷酷な社会である。だから金のないものも悲惨なことになる。一方で金があっても金は万能でないからかえって金の故に金がもっている故に原発避難者は同情されないし非難されるのである。だから金を持っていることも恐いことなのである。資産家が殺されるのも今は普通のことである。原発避難者が補償金で非難されるのも金のためであり金はもっていてももたなくても災いともなるのだ。もともと金ゆえに協力しない社会でありその延長として補償金問題で金が話題の中心になり原発避難者は同情も協力もされないという状態になった。やはり金でめんどうみろとなった。でもすべて金で問題が解決しない、金をもっているのだから何に使おうと勝手だとかならないし助けてもくれない、協力もしてくれないのである。それは自分の一身上のことと同じだったのである。


原発事故の避難者の補償問題が長びいているとかうまくいかないとか放送していたけど故郷自体喪失するという経験は今までにもそんなに
ない、こんな大規模に起きたことがない,この補償はもはや金だけでできるものではない、金で補償できないものを失ったのである。その土地の思い出とか歴史も失うことになることはそこに住んでいる人たちだけではない相馬地域だけでもない、福島県だけでもない、日本にとっての損失だったのである。それは金で代えられないものだった。金で何でも代えられないということであったのだ。失った青春時代を金で買えないと同じである。それは何百億積んでも買えない、それほど失われた時間は貴重なものだったのである。

 
 
posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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