2013年01月29日

補償金で働かない原発避難民が今は国民から批判されている (政府や東電の責任が問われなくなっていることの危険)


補償金で働かない原発避難民が今は国民から批判されている

(政府や東電の責任が問われなくなっていることの危険)


いわき市施設に「被災者帰れ」 3カ所に中傷落書き
http://tinyurl.com/a94b5y3


どこでも避難者に対する風当たりは強くなっいる、小高は南相馬市内だから救われている

誰かしる男の介護冬の暮


裏方に働く人のその思い介護してしる冬のくれかな


●仕事が見えない現代のシステム(人間より機械や金に世話になっているという錯覚)


ここ6年は自分は介護して家事をしている。家事は裏方の仕事であり目立たない、裏方の仕事はそもそも表に出ないからわかりにくい、食事を出すものでも食事を作るものはなかなか目に見えない、
かえって掃除しているような人が目に見えたりする。厨房はなかなか目に見えないところにあるからわからないのだ。病院でも食事を出している仕事場は見えないから誰が作っているのかもわからない、一方掃除している人は見えるからこの人は病院で仕事しているのだと思う。掃除している人も病院では患者のために働いているのだ。病院でも一番目立つのは医者だけど看護師も目立つけどやはりどこにも裏方はいるのである。ただこの裏方の仕事もなくてはならないものなのだ。ただ裏方の仕事は評価されにくい、病院というと医者が黄金のように存在する。あとは目立たないが看護師はそれなりに目立っている。医者を支えているのは看護師たともいうのもわかる。この辺では看護師が流出して病院や医者の仕事ができなくなったのである。現代の仕事はあまりに多様だからなかなか見えないのだ。どういう関連があるのかもわかりにくい。

現代の仕事は本来は人に尽くすとか人と人との関係に仕事もあった。直接人のために仕事をしていたのが見えていた。それが今は人が苦労して何でも働き与えているという感覚がなくなっている。

人に世話になるとか人が働いてくれて助かっているとかの感覚が消えている。むしろ金に世話になっているのだ、人より金だという感覚が大きくなっているのだ。そして機械やってくれているのだともなる。人間の仕事は例えば家事でも機械化する。大根オロシとか作るのが面倒だから機械でボタン一つでやるのがいいとなる。人間の仕事はどうしても機械化するように運命づけられていたのである。だから介護ロボットやがて人間を世話するとまで思いこむようにもなっている。人間を感じられなくなっている。人間は人間が働くのではない、機械が働いている、その機械を動かすのが金であり人間は介在しなくなる。自動販売機などはそうなっている。そこには店もなければ人間もいないからである。ところがすべて機械でやっているのかと思うがそうではない、自動販売機で仕事している人を見ていたら種類が多いから自動販売機にジュ-スなどを入れる作業がめんどうなのである。やはり人間が仕事しているのである。ただ機械が表にでて人間が裏方になっていたのである。


原発避難民の問題も多額の補償金をもらっているから働かなくてもいいとなっている。でもこれが本当に外国のように苦しい難民になったらどうなるのか?補償金がありそれも一家で土地から家からと補償が加担されて150万一か月もらっているから働くなくていい、むしろこの金ではたらいてもらおうとなっているのも異常なことである。もし金がもらえないとなれば暴動にもなる、そしてその移動した人がその土地の人に世話なるとしたら絶対に働かないではいられないのである。助けられるのだからなんとか助けるものとして働かざるを得ないのである。それがないのは今は人に世話になるというより金に世話になっているという感覚が強いしそういうシステムになっているからなのだ。ただ
そういうふうに金があるということで働かないことで回りから反発が大きいのである。仮設の回りは補償金をもらっていないからである。だから鹿島区でも店を出したのは地元の人であり原発避難民は差別されのも仕方がないのかとなる。実際百万とかもらうというのは異常である。何でそんな金もらえるんだ、回りでも日本全国でそんなに金払ってどうするんだ、その金は国民が汗水流して働いた税金だとなり福島ナンバ-の車が東京などで傷つけられた。そこに回りの相当な反発があることを知らねばならない。


●政府や東電より補償金がもらえる原発避難民が批判の対象になっている危険


そして今何が起きているのか?本当の原発事故の責任者が東電とか政府や官僚の検察のことなどが忘れられ具体的に補償金をもらい補償金を要求する原発避難民が税金泥棒のように見られかえって本当は原発避難民こそが一番悪者だったとされる。あいつらはもともと原発で得した者でまた事故でも得しているとされる。そして俺たちの税金で多額の補償金をもらっている。肝心の責任者の政府とか東電は責めなくなっているのだ。一応東電を訴えたにしてもそれは形式的なことであり裁くことはできないとされている。政府でも教科書まで利用して安全神話を作ったのだから戦争のときのように相当な責任があった。しかし今やその責任は補償金問題に移りその補償金をもらう原発避難民に非難が向けられているのだ。そういう自覚がなくただ補償金だけをあてにして暮らそうとするのは問題がある。もちろんそうなるのもしかたない面があるにしろ原発避難民もそうした回りの変化に気づくべきである。最初は政府とか東電を国民は批判していたのだ。今はそういうことがあまりなく国民の関心は多額の補償金をもらう避難民の方に注意が向いている。それは具体的に金がかかわっているからそうなる。これは多額の補償金で政府や東電が仕組んだ策略なのかとさえ思う。実際に最近政府や東電の責任をマスコミでも国民でもとりあげない、東電の会長でも社長でも責任を課せられない、罰せられないことはおかしなことである。いくら補償金もらってもやはり原発事故の被害者は相当に苦しんでいるからだ。放射能の被害で死ななくてもその関係で避難したときに病人などが多数死んだりその他自殺したりと被害者がいるし今もいるからだ。


でも小高区などはインフラが整備されれば帰れるのだから帰るべきだろう。補償金をもらっているからもらえなくなるから帰らないというのは納得できないのである。補償金をもらい町を捨てて別な町に住むにしても働かないでは受け入れられないだろう。働くことは人間の尊厳を保つ基本的な行為でありそれは金があるから働かないではそうした尊厳すら喪失する。実際にパチンコ屋に毎日出勤するのに妻が食事の用意をするということで生きがいもなにもなくなるだろう。家庭全体が生きがいをなくしてしまうだろう。裏方で働く人だって何らか人のためにしている、社会のためになっているという意識があって働いているのだ。学校や病院で食事を出している人だって単に金をもらうからではなくやはり家事をしているのと同じく将来をになう子供育てているという意識があるだろう。
現実に近くにパチンコが仕事の人がいる。でもその人の顔は何か憔悴した人生を浪費したという顔している。パチンコ屋に通いそのパチンコ屋で人手がたりないとか疲れたとか働いている人の姿は異常である。そういうことに矛盾を感じないのかと思う。ただ金になればいいとしか考えないのだろうか?そのくらいの思慮が学問がなくてもあってもいいはずなのだ。ただそれがわからないものは仮設の店でも差別されたり福島ナンバ-が傷つけられたりとか外部からの嫌がらせで意識させられる。


生む−生かす−生きるはすべての仕事に通じる


生む→生かす→生きる これは社会全般、人生全般に通じることである。子供を生む→生かすは育てるに通じる。最後に生きるは主体的に私が生きるとなる。社会の仕事で一番多いのが生かすことである。医療でも生かすことであり教育も人の個性などを生かすことである。医者でも患者を殺すことがあるし介護でも介護されるものを殺すことは虐待など日常的に起こっている。家庭でも起こっている。介護に耐えきれず殺人になったの近くの浪江の請戸がそうだった。介護の深刻さはあまりにも身近な問題になっているのだ。生かすことができず殺すことになるのも厳しい現実なのだ。生む→生かす→生きるは人間の普遍的テ−マである。だから意味もわからない題目や念仏を唱えているより生む、生かす、生きると唱えていた方がいい。なぜなら日々生きることが生む、生かす、生きるだからである。日々なんとか生かそうと努力しているのが人間の仕事なのだ。


生む−生かす−生きるという行為は営々とつづく、新しい生命は生まれ生かす(育てる)ことはつづくし生きることも終わることはない、そして生きられざるものが過去にありつまり生きたいと思っても生きられなかった人たちが膨大な数いる。私が知っている母方の墓には結核で若くして死んだ青年が埋まっているし結核で若くして無念で死んだ人は膨大であり戦争で無念で死んだ人も膨大である。この死者たちの生きたくても生きられない生があり一方で新しい生は途切れることなくこの世に生まれてくる。生む−生かす−生きるは延々とつづく、生きえざるものも生かされざるものも生む−生かす−生きるという連続性のなかにつながっている。

ともかく生む−生かす−生きるは人間の普遍的テ−マであることは間違いない、どんな仕事でも農業でも生む−生かす−生きるという作業がある。何かを生み−生かす−生きるのである。生命の営みは生み−生かす−生きるなのだ。一方で生命を殺すというのも常に反面としてある。団体組織は必ず個性を殺す、生かすべきものを生かさないことは教育でも福祉でもいろんな分野である。何が生かすのか生きるのかそれぞれにの価値観の相違で対立することもある。ただ基本的に生む−生かす−生きるが人間の普遍的テ−マであることは間違いないのだ。


時事問題の深層に書いてきたものだが6年間介護をしてきたのでこういう思想が自然と生まれた。
思想も働くことによって生まれてくる。実践から生まれてくる。学問しても生まれないのである。
まだ実践から生まれた思想は本物であり力強いのである。農民から生まれた思想もそうであった。
ただ農民だけではない、介護もやはり無駄だといってもパチンコするよりは無駄とはならない、それなりの意義があり価値があるからそうした良き思想が仕事のなかから生まれるのである。


生む−生かす−生きる・・・これがなくなるとき人は頽廃して絶望する、どなん戦争も破壊であり人を殺すことには生む-生かす-生きる・・・という行為がないから肯定されないのである。それはおそらくテロですらそうである。いくら不満があっても他者を殺してそれが自分たちの生む-生かす-生きることに通じるということはありえないのである。石油プラント精製所もやはり苦労して外国人でもアルジェリア人でも作ったものでありそれを壊して生産的になれるはずがないのである。


生む−生かす−生きるは人間の普遍的テ−マ
http://www.musubu.jp/jijimondai35.html#umu

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posted by 老鶯 at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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