2013年01月28日

南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎

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元禄中に記録に新田邑となす、地勢袋のごとし、是れをもって袋邑と名づく、
元禄中民十三あり、漸次大内村松迫に移るという。(鹿島町誌)


袋村があったがなぜ消えたのか?先に大内村は地から低地に新田を開拓して移ったと書いた。
袋村も大内村の人が開拓した村なのか?大内村の枝村なのか?確かに民戸十三戸があったのだから
人が住んでいたのである。
その後なぜまた大内村に移ったのか?もともとはあそこは湿地帯であり牛島というのも湿地帯であった。あそこに港があったがあれは新しいものだろう。
もともとは浜町の方に人家が集中したように浜町が烏崎の中心地でありそこは町であり人が集った。市を成した場所だった。海岸沿いは市が生まれ安いのだ。最初の商人が魚を売っていたというのもうなづける。実際に烏崎から石鰈をとったとき売りにきていた人がいたからだ。海岸沿いは昔は塩もとっていたし地引き網あったし港の機能もあった。船が出入りしていたのである。


鳴瀬町に浜市とあるのもにたものだろう。浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。


なぜ袋村の人が大内村に移動したのか?津浪が原因ではないだろう。なぜなら慶長津浪は元禄の前ではないからである。新田村となったのは元禄だとすると慶長津浪の時は湿地帯だったろう。
ただ袋村として記録にあるからには十三戸があったということは村になる規模が一応あったのである。大内村に移ったとしてもそこは新田になっていた。ただ真野川に沿ってあったからもしかしたら洪水があって水浸しになったのか?あそこは洪水になりやすいからだ。真野川は度々氾濫して洪水になっている。自分の家も下町なので二回も洪水で大きな被害を受けている。場所としては余り良くないところだろう。小島田というのもやはり湿地帯のなかに島になったような地形だったのだろう。あの辺が今回の津浪でみな被害を受けた。


ともかく烏崎村も浜市村も市場ができて人が住み着いたことは確かである。烏崎村の前進が浜町になっていたことは浜市村と同じだからである。最初袋村の人たちが烏崎村に移動したのかと思った。
なぜなら烏崎村は人家が多いからだ。特に浜町に集中していたのである。新田を開拓したにしろ漁業や港の機能があれば市場ができてそっちの方が収入が多くなる。米をとるだけより漁業の収入は大きいのである。だからこそ烏崎村に人家が集中した。新田開拓では人口は増えない、大内村は一番古く次に烏崎村があり袋村があった。袋村は大内村の出村のようなものだったのか?烏崎村の記録は明暦からはじまっているが漁業の記録はない、田の石高や馬の記録だけである。漁業は税の対象ではなかったから記録されていないのだろう。烏崎村が津浪で壊滅したけど水葵や沢潟(おもがた)が一部湿地帯化した池に咲いていた。水葵も沢潟(おもがた)ももともと田に咲いていたのでありそれが復活したのには驚いた。種が地中深くにあったのが出てきたのである。袋村の田は烏崎村になったのか?

そうでなければ米はそんなにとれないから烏崎村が村ともなりえなかった。田にするには土地が狭い、ただ記録では大内村に所属していたとなる。烏崎村は田だけではない漁業で人口が増えたのである。田を中心にした村は人口が密集しない、散村というか点々と広い農地に人家ができる。宿場町とか漁業の町は港の機能があり市を成して海辺に人家が集中するのである。


袋村はつまり次男三男八男でも分家させるために大内村から開拓に入ってできた村だったのだろう。ただ一時は村を形成したが消失したということである。その原因は良くわからない、あそこに津神社があるのも謎である。津浪の記念の神社とされるがそれは慶長時代であるから新田開拓に入った元禄のあとである。また推測としては袋村の人が大内村に移り烏崎村の方に移動したとも想像できる。
なぜなら分家したのだから元の村にもどるということは考えにくいからである。烏崎村には漁業があるから人を吸収できたとも考えられるのである。つまり大内村と烏崎村は密接な関係がある。大内村の人が移動したとすると大内村の姓の人が住んでいることになる。橲原村から移動した人が大葦とかに開拓に入り移動して住み着いた。大恊ゥは橲原村にもあるからだ。大内村はあの辺では中世の館があり館下という地名もあるからあそこが中心として袋村や海の方へ烏崎村へと開けたことは確かだろう。


原発の近くの双葉町でも水葵が繁茂した
http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46677202.html

posted by 老鶯 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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