2007年10月26日

飯館村で考える農業の問題(飯館村のコ−ヒ−店で自家製のパンを買う矛盾)


飯館村で考える農業の問題

飯館村のコ−ヒ−店で自家製のパンを買う矛盾)
 
●また道路を作っていた
 
飯館村で塩の道であったところに直線道路を作っていた。農家の裏側が塩の道になっていた。こんな農家の裏側を馬で荷を運び通って行ったのかと歩いたことがあった。そこは壊された。塩の道といってもそれほど村では大事にしていないのかもしれない、あそこに短い道路を作る意味があるのか?遠回りにはなるがほとんど車だったら変わらないだろう。自転車でもそれほど不便には感じないからだ。トンネルは必要だったかもしれない、それにして無駄な公共事業、道路作りが多い、車をもっていないから車をもっている人にはそうでないのかもしれない、でもなぜこんなに道路ばかり作っているのだうという疑問がある。自然破壊になっているし文化遺産も破壊することにもなる。そういうことに文句を言う人もいないが最近福祉とか介護に公共事業の財源をまわしてくれと言う意見がでている。そういう声の方が切実になっているのだ。近くで施設を経営したのは建築関係の会社である。その人たちは確かに建物を建てるのは得意だが介護となると未経験だし余りにも分野が違いすぎるから対応がむずかしい。それは人へのソフトな対応になる。ハ−ドの施設としての建物とは違ったものとなる。だから公共事業が減っても福祉には簡単に移行できないのである。
 
●コ−ヒ−豆、自家製パンを売る−山の村の喫茶店
 
飯館村にあるアグリというコ−ヒ豆とか自家製のパンを売っている所は意外と中は人が入っていた。外からそんなふうに見えないのだが中にはウエトレスも三人とか働いている人が五六人も忙しく働いていた。これはコ−ヒとか自家製のパンとかケ−キを買って行く人が多い、車社会だから相馬の方でも川俣でも遠くから来ているのだ。近くでもコ−ヒにこっている人は買いにくるらしい。八〇くらいの老人でも若い人と一緒にいる人はコ−ヒを飲んでいるのだ。そこで自家製のイギリスパンを買った。それにしても外は刈田でありその刈田をながめてコ−ヒを飲み自家製のパンを買うというのも奇妙な光景なのだ。飯館では高原であり寒いから米をとるのに苦労する土地だった。その米と関係ないパンを買いに来る人が多い。農家の人もパンを買いにきているのかもしれない・・・食事も朝はパン食にしている家が多いかもしれない、私の家でも自分で食事を用意するとなると簡単なものがいいからパン食になってしまったのだ。パン食になると和食とは違いパン食にあったものを用意する。ご飯の食とは違ったものとなる。そしてどうしてもうまいパンを食いたくなる。これは米でも同じだから人間はうまいものを追求することではパンでも米でも変わりないのだ。NHKで米の議論をしていたけどこういうところにもなんか矛盾を感じる。鳴子の旅館で地元の米を買って客に出すというのはわかるがここは地元にとれるものとは関係ない世界なのだ。でも人が遠くからも買いにくる。車社会は辺鄙な所でもいいものを売れば売れるということがわかる。あそこがうまいとなると車で遠くからでもやってくる。場所は関係なくなっているのだ。今や仕事は広域化しないと仕事にならない、今までは歩く範囲の狭い自給自足に毛の生えたような経済だった。今は広域化しないと仕事自体が成り立たない、近所だけ相手の仕事は消失した。地名すら広域的に観光に有利だからと外からみて有名な地名をつける。
 
●企業−消費者−生産者の立場の相違
 
農業とか米の議論をしたらきりがない、米すらコシヒカリとかは台湾とかに輸出するとか中国の金持ちに売るとか米というものが商品化してグロ−バル化の競争食品となっていることに驚く。今日NHKでやったフランスの伝統的なワインもグロ−バル化で危機に瀕している。どこでもグロ−バル化で食料も商品化して競争せねばならないという牧歌的な零細小農の日本的文化からはかけ離れたものとなっている。経済そのものが日本国内でも競争して広域化して市場で勝たねば農業も成り立たない、親戚のログハウスを設計して建てている人もインタ−ネットで全国から注文を受けて遠くに建てているだから那須だ、猪苗代だ、蔵王だと車で現場に行かないといけないから大変だと言っていた。これも広域化で仕事が生まれたのである。そして企業−消費者−生産者でもその内部でも意識の相違がある。企業は厳しいグロ−バル化の競争のなかで生きているからコスト意識が高い、だから農家も企業のまねするべきだというのも農家にとっては厳しいとなる。農業は特別だから補助金が必要だとなる。中国の農産物は安いから輸入するのは当然だとなり日本のものは高いから買わないとなりこれもかみあわない、グロ−バル化のなかでそうなっているのだ。グロ−バル化はagri-cultureをcultureを破壊するというのは本当である。フランスの土地ごとについていたワインの名前も意味がなくなりその土地はゴルフ場になるというのもそのためである。消費者にしてもパン食にするのは現代的時間に追われる生活からパン食が便利だからそうなっているのでありご飯を食いというのも困る。その他自給自足的に小地域の生産者を守れと言われても不便だと困るのだ。買い物でもどうしても買う種類が多いからス−パ−になってしまう。買い物も結構な手間なのである。すでに飯館村という小さな山の村でも農業の問題は凝集されてあるのだ。


  今日(5月27日)NHKで飯館の凍み大根作りを放送していたけどやはり飯館のような寒い地域にあっていた。雪野のなかに大根を干している風景も飯館にあっていた。その土地と風土にあったものが文化−cultureなのだ。あの凍み大根は最近作ったものではない、代々作っていた。そこにも意味があった
 
飯館に代々作る凍み大根その味よしや土産とせむかな
posted by 老鶯 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
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