2006年04月26日

春の日暮れる(老人に学ぶ−大正生まれは忍耐の時代)

阿武隈の飯野に生まれ語りたる尽きぬ苦労や春の日暮れぬ

川俣の隣が飯野でありここは山深い、川俣から福島市には一時間おきくらいにバスがでている。ここではまだバスが生活の足となっている。福島市に通勤している人も多いかもしれない、ここに生まれた人が私の家族と縁あってその人の夫が結核で肺を半分とる手術をして大変な苦労をした。看護婦だったので子供の世話までした。10年間くらい病院を行ったり来たりしていた。それで世話してくれるのだ。親戚といってもさほどの親戚ではなかったがめんどうみたことでその恩を忘れず来てくれる。他にも精神病を患った人を保健婦のときめんどうみたからそこでも良くしてくれるのである。近くでは兄弟でも病気になっても来ないとかある。人間はそういうものなのだろう。なかなか問題あるところにはきずらなくなる。

いづれにしろ大正生まれの人はみんな大変な苦労している。学校に行ってもオトノモリ、子供をおんぶして行って教室の外で授業を聞いていたとか小説読んで字を覚えたとかまともな教育すら受けていないのが多い。労働もきつく朝6時から9時まで機織り工場で子供を連れて働いたとか延々とその苦労を語りつづける。機織りは絹の産業が日本の中心産業だったからどこでも盛んだった。今でも山の中には二階が蚕をおく部屋となっている古い作りの家が残っている。下が馬小屋になっていたところもある。機織りは絹の産業には大正生まれの人は必ず関係しているのだ。そもそも母方の家も機織り工場を経営して破産したことが苦労の原因になったのだ。日本全国でこの絹の産業に関係していた。女工哀史もその一つである。この機織り、絹の生産は阿武隈の山の農家でも盛んだったのは蚕は山でも桑の葉を作ればやれるのだから盛んだったのだ。だから桑の葉はいたるところに作られていたのだ。自分の家の裏にも桑畑があった。それが今はほとんどなくなってしまったのだ。


日本の産業革命は紡績、製糸の軽工業を先頭にたててすすんだ。それに従事した80パ−セントが女子である。つまり日本の資本主義工業はまったく女性により発達させられたのである。これらの女工の大半は二十歳未満であり十四歳未満が10パ−セントもいた。(日本女性史−井上清)

これで母が言っていたことだがやはり朝六時ころから晩の6時頃まで働かせられた。そこで昼休みが30分しかなくその間に遊びたくて早食いした仲間が胃を悪くして死んだとか話したがそれが冗談かと思ったが長い労働時間がそうさせたことで納得する。その頃貧農が多く現金収入のために紡績、製糸工場が現金収入の道となっていたのだ。これは今の後進国や中国の貧しい労働者と同じである。子供も親のために働かせられているし安い賃金で中国の農民が世界に安い品物を輸出している。日本での輸出品は絹だったからそうなったのだ。こういうことを実感として知ることがむずかしい。血のにじみでるような体験を知ることはむずかしいからだ。歴史は権力闘争の歴史だけではなくこうした庶民の歴史を地の底からでてくるような大地に刻まれた庶民の歴史を知ることが大事なのである。そこに本当に生きた歴史が刻まれているからだ。

老人を知るということはこうした長い過去の歴史をじかに知ることなのだ。これは教科書で学ぶより生きた歴史なのである。これは認知症になった人でも昔のことはその日にちまで覚えていることがある。昔は今より生き生きとして語られるのだ。だから回想法は認知症の治療にいいのである。そして聞き出す方も過去の生きた歴史にふれるから教えられることになるから認知症の人とつきあっても何も益がないいやなことばかりだとはならない。大正生まれの人に学ぶことは忍耐力である。この時代の人は極貧を生きていた人が多数なのである。忍耐して生きる他ない人生を強いられたのである。その人生もいろいろであるが共通していえることはこの忍耐力には敬意がもつのである。

今の人は特に最近の信じられない少年のキレタ殺人事件は忍耐力がないからだ。この世の不満を言ったらきりがない、大正生まれの人の話を老人の話をもっと少年でも若い者でも聞くべきなのだ。大正生まれの老人は忍耐力では誰しも尊敬に値するものをもっていることになる。いろいろいやなことや不満なことやたりないことがあっても90年という歳月を耐えて生きてきたことに意味があるのだ。だから短絡的に自殺したりするのは間違っている。そういう人たちの苦労からすると全然苦労にもなっていないからだ。今の大正生まれの老人の価値は長く生きたというだけではない、苦労して忍耐して忍耐して生きてきたということにある。信長と秀吉は天才であり家康は天才ではないが長生きして忍耐して天下を治めることになった。結局時間のレ−スで敵対するものが勝手に脱落してしまったのだ。天才ではなくても長生きした結果、天下が家康のもとに転がりこんだのである。それは一重にひたすら忍耐して時を待った結果そうなったのである。ともかく90となると60からでもあと30年あるのだからやはりこの歳月はすごく長く感じられる。90まで認知症にならず正常なら明らかに勝ち組であり尊敬の対象になるような気がするのだ。ただ高齢化社会でも実際は90になる前にかなりの人が認知症とか病気になっており脱落しているのだ。

その人は今では家庭環境でも非常に恵まれている。不思議なのはログハウス作りの個人経営をして東京とかまでしょっちゅう行っている。地元でもログハウスなど高いから作らない、だから広い範囲で仕事の注文を受けている。だから車で遠くまで常に行っているので大変である。この仕事も金持ちのためのものであるから昔の仕事ととは違っている。一般的には今の大正生まれの人は極貧の生活から比べれば信じられないような豊かな生活をしていることに驚いているのだ。自分の父親も病気になり言ったことはさしみ食えるようなったら病気で食欲がなく食えないと言って死んでいったのである。その頃バナナも売っていなくて遠くからわざわざとりよせるのに大変な苦労したとかいつも言っている。だから大正生まれの人は過去の極貧の時代を知り現代の豊かさを知っているからいいのだ。その後は豊かさしか知らない時代となったから豊かさが当たり前だからありがたみもない、物を粗末にするとか忍耐力がなくキレル殺人とか多くなるのだ。

どんなことでも忍耐力なくして成し得る仕事はないのだ。凡人は忍耐力を養うことが大事である。才能もその上に花開くことがある。老人と学ぶことは単に財産を受け継ぐだけではない精神的なものを受け継ぐことである。それが忍耐力なのである。その生の重みはその忍耐力にありそれほど語らずとも老人の存在感がある所以なのだ。大正生まれの人にはそれが備わっていたし明治生まれの人にはそれ以上に威厳があるものがあった。その違いは何なのか?やはり時代が育んだものなのだろう。今度は団塊の世代が老人になるのだがこれは大正生まれのような存在感と尊敬は得られない、今でも団塊を邪魔者扱いしている若者が非常に多い。だからこれからは大正生まれの老人のような待遇を受けられない、やっかいものとしてお荷物として年金泥棒とかそんな冷たい目でしかみられないから老人の受難の時代になる。ただこの時代の人は遊び上手だから新しい老人文化を作り出すことはありうるかもしれない、団塊の世代が再びバンドを結成したりするのはやはりそういう感性は豊かだからである。それで新しい老人文化が興隆することになるかもしれない、つまり豊かな時代は文化の時代になる。食うことだけが優先された時代とは違っているからその点大正生まれの老人たちとはかなり違った老人文化が生まれるのである。
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