2013年01月07日

南相馬市鹿島区の海老村-八沢浦の津浪で流された神社



南相馬市鹿島区の海老村-八沢浦の津浪で流された神社

南相馬市鹿島区の海老村-八沢浦の津浪で流された神社

南相馬市鹿島区南海老の金砂神社、磯ノ上稲荷神社、北右田御刀神社境内八坂神社の三ヶ所に仮社殿を設置したとのこと
http://chingokokka.sblo.jp/article/51675182.html


http://chingokokka.sblo.jp/archives/20111207-1.html



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海老村のパノラマ写真

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竹駒神社の礎石-これはしゃれているが気づかなかったろう
遺跡のようになってしまった。


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これが残り谷(屋)である

前には一軒の家残らなかった。

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残った松
八沢浦の妙見神社

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海老村の海岸のすぐ近くの金砂神社が流された。そのあとに小さな祠が建てられた。それを建てたのは地元の人ではない、外部から来た人だった。あそこの神社にも石碑があり車輪梅が密生していた。その写真をとっていたが今不明になっている。金砂神社は砂浜で砂鉄をとっていた人が建てたのだろう。茨城県の日立にもあるから砂鉄をとる人が移動してきたのだろう。黒々とした砂浜がありあれは砂鉄だったのである。江戸時代の碑が残っていたがそれも流された。不思議なのはその流された碑がどこにいったのかわからない、探せばあるはずだが探して集めているのだろうか?


神社は信仰の対象というより今は文化財として保存の対象になっている。神社にもいろいろ起源があり何で祀られたかもわからないのが多い。烏崎にも津神社があり400年前の慶長地震津浪を記念したものだというが実際は鯨の祭りをしていて鯨の碑があった。だからあそこが津浪を記念していた神社だとは地元の人すらわからなかった。でも津神社は松川浦にもあったのだから津波の津なのだから津浪と関係していた。そもそも津浪ということば慶長地震の津浪からその言葉が生まれたことででもわかる。ただ忘れて祭りさえ別なものになっていたのである。やはり

津神社という名前が何なのか問う人がなかった。津浪の津とイメ-ジする人がいなかったのである。

竹駒稲荷神社は海老にもあったし他にもあった。竹駒神社はこの辺でも岩沼に行きお参りしていたし今でも農家の人たちはしている。その伝説も残っている。米の豊作を祈願のためにお参りしている。海老村は何軒か残して壊滅した。あの立派な一軒の家は良く残ったと思う。特別頑丈だったのか新しい家だった。つくづくあの家を見ていると良く残ったなと感心する。その前は全滅しているからだ。だから良く残ったということで残り谷(屋)という地名が他でついたことの意味がわかる。あそこも明かに津浪で残った残り谷(屋)なのである。


八沢浦の海岸近くに妙見神社の祠があった。それも流された。あれは武士が開拓して祀ったものだろう。明治維新で武士を失業した人が開拓に入った。城下に勤めていた侍かもしれない、ただこの辺では農民と武士をかねていた郷士だからそうとも限らない、会津とか伊達になると城勤めの武士がかなりいた。相馬藩では少なかった。だから会津では青森のとなんとかで開拓させられた。伊達では亘理の武士が北海道に移住してそこが伊達市となった。その侍は農民ではなく城勤めだったのだろう。
農業でも経験がなければ苦しい。だから北海道で農業の経験のない人は相当に苦労したのである。

この辺で原発事故で故郷を追われた人たち,特に農業をしていた人は仕事にしても簡単にできない、会社勤めの人はできる。会社が移動してそのまま勤めている人がいた。農業は土地がなければできないのだ。だから飯館村でまた農業をしたいという人はいるし牛を飼うことをつづけたいという人はいる。若いなら新しい仕事ができるかもしれないが50代以上になると新しい仕事に就くことはむずかしいのだ。

ともかく写真も今になると貴重なものになった。一つの故郷の記録として残す必要があった。

八沢浦は海老村や烏崎村のように壊滅していていない、家がまばらだったからである。もちろん死んだ人もいる。でも何か家が少ないからあそこがあれだけ広い入江が再現したとき驚嘆したのである。それにしても海老村から眺める風景もなんとも不思議としかいいようがない、家も何もなくなることの不思議である。みんな消えてしまい何もなくなってしまったのである。こんなさっぱりと消えてしまうのかということが信じられないのである。墓所だけが残り村は壊滅したというのも不思議である。墓が壊滅した村を見守っているのも不思議である。墓参りはできても肝心の集落がなくなっているからだ。墓参りする人も死んでいるのである。


津浪の傷痕は深くまだまだ癒えることは先のことである。二年たったとしても何ら変わりなかったのである。まず津浪の跡には家は建たない、あそこで一千万とかで売り出していた白い別荘があった。あれも売る前に流されてしまってゼロ円になってしまった。一方津浪の前に売れた家もあった。あそこは得したと思った。そんな損得勘定をしているような状態でもなかった。津浪の被害の前にそんな損得勘定よりただ茫然としているほかなかったのである。津浪の恐怖は一瞬にしてあったものが人でも家でも消えてしまうということだったのである。その恐怖は未だに消えていないし継続しているのである。神も仏もないのかという恐怖だったのである。

posted by 老鶯 at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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