2012年12月06日

美の結晶 (パソコンの抽象画は化学実験ににている?)


美の結晶

(パソコンの抽象画は化学実験ににている?)

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美の結晶

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女性の接近

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脳の内部(女性的なもの男性的なもの)




パソコンのソフトの抽象画作りは化学実験とにている。つまりどういうものを描こうとしているのではない、偶然の作用でなったものに意味を与えているのだ。具象画だったらこんなことはない、描く対象がありどういうものを描くかを事前に見ていて描いている。
抽象画はただ化学実験のようにパソコンのソフトで加工しているだけである。機械的にしているのであり何か創造的なものをしている感じがしない、ただ偶然に変化したものがこれは何かににているとなって題をつける。


美の結晶というときまさに火山の中でダイヤモンドが生成して結晶する感じになる。
人間は必ず芸術を追求していれば晩年にはその追求したものが何でも結晶してくる。
若くても死ぬとなると芸術はやはり結晶した表現になる。啄木などがそうである。
一般的には晩年まで待つほかない、そこで今まで貯えていたものがダイヤモンドのように結晶してくる。


つまりダイヤモンドのように結晶するにはいろいろな経験をししていろいろな要素が混成して化学実験のように新しい物質が生み出されるのとにている。ただそこに不純なものが交じると結晶するのはむずかしい。やはり芸術として結晶しないのは何か追求する過程で不純なものが交じったためである。それは商業主義と名利とか何か芸術そのものより別なものを求めたためだろう。
そういう人が多いのである。


ともかく晩年になるとつまらない知識すら活かされてゆく、無駄なものが何一つなくなる。それが文章で絵でも何でも結晶してくる。旅でも経験したものが全部ダイヤモンドなどになる結晶作用してくる。脳というもの明かに生まれつきものではない、体さえ習慣として作られてゆくように脳も作られてゆくのだ。能力は開発しない限り発揮できない、天才は別にして能力も脳も一生の間に作られてゆくのだ。だから不純物が入ると脳は乱れ結晶できなくなるのだ。それは能力あるなしにそうなのである。人間は確かに素質はあっても習慣によって作られてゆくものなのである。

若いときからの積み重ねで晩年の脳も作られてゆくのだ。学者だってそうした知識の積み重ねの結果として論文も書ける。それはあらゆる分野でそうである。どんな人間でも一分野を追求していれば詳しくなれるということである。


 

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