2012年12月04日

「エホバの証人輸血拒否事件」 (他人の血でも命が助かることは感謝すべきだ)


「エホバの証人輸血拒否事件」

(他人の血でも命が助かることは感謝すべきだ)

人の血を我が血に入れぬ人はみな血族のみにて生きることなし


 日本でインフォームド・コンセントが注目されるきっかけになった事件に「エホバの証人輸血拒否事件」があります。1992年に東大付属病院で起きた事件で、患者の了解を得ないまま、担当医が手術の際に一方的に輸血をおこなった行為をめぐって、民事訴訟で最高裁まで争われました。今回はこの「エホバの証人輸血拒否事件」を考えたいと思います。
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/yhwh.htm

宗教というのは霊的なもので、「人の魂に与える影響」を語るものです。
体内に摂取するものの是非を問うたり賛否を唱えたりすることは、医者や栄養士の仕事であって、本来、宗教が携わる仕事ではないものと考えます。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1547428.html


エホバとかもカルトなのである。アメリカに本部があったり韓国に本部があったりするは独自性がそがれる。内村鑑三とか手島郁郎はアメリカを拝金主義だとかいろいろ嫌っていた純粋国産で培養するキリスト教を教えた。韓国とかアメリカが本部があり団体だということは政治的に影響されるのである。たいがい政治化した経済化した宗教はカルトになる。愛国心をあまりに鼓舞するのもカルトになりやすい。政治とか経済は一番わかりやすい,腹のたしになること欲望を限りなく満たすことをでありそれはすべて容認されるし奨励さえされている。創価などはその典型である。だからこそあれだけの数が集り権力団体、圧力団体と化して世の中を権力を我が物にしようとしているのだ。そして仏の神の権威を楯にして罰あたるとかなんとか脅してくる。もし権力がないのならかまわない、一人が言うならそれもいい、しかし実際に一千万人の人間が集団化して罰あたると叫んで権力をもったら、警察でも動かせたら恐怖である。実際にそうなっているから未だに恐怖なのである。


やはりこの世では常識をもっていればカルト団体にはひっかからない、なぜ常識が逸脱してくるのか?信仰のためには集団を組織を守るためには他者を殺してもいいということが正当化される。でも宗教で他者を殺すことを容認する教義はないだろう。どうして人を殺していいのか?そう疑問に思ったら考え込んだら簡単に人は殺せないけど集団催眠にかかっているとそういうことが見えなくなる。
そこに集団の恐ろしさがある。エホバにしてもそうした集団でありそういう教義が常識的におかしいと思っても集団の力でそうではないとされるときそれを実行するから怖いのである。宗教は常識を逸脱する。内村鑑三なとが説いた信仰は実に理性的であり常識的であることがわかる。その上に信仰を説いているのだ。集団的になるとき常識を逸脱してもそれが正しいとなるし他者の意見を聞かなくなるのだ。


自分は手術中ではなくても手術の後に輸血した。輸血したのははじめてでありなんとなく嫌な面はあった。でも自分の常識的な考えでは他人の血で助けられたという意識をもった。他人の血が入って良くなったと常識的にそう思ったのである。自分の血液型は変わっていてそんなに同じ血液型がないと言われた。だから血液が貴重だったのである。自分は自ら輸血したことはない、体が弱いこともあり親戚の人が手術するとき輸血してほしいといってもしなかった。若いときでも何か自分が体一時かなり無理して衰弱していたのである。その後今まで生きられたのは無理をしなかった一語につきる。楽な生活がつづいたからである。無理して栄養不足になったりした人はみな早く死んでいる。戦前までは長生きしていないのはそのためである。栄養をとり無理しなければ病気にならなければ長生きするのである。


自分は輸血されて単純に思ったことは他人の血で元気になり生きられるということであった。だからその血を提供した人に感謝せねばならぬと思った。病気ではだから他人の臓器でもそれでその人が生きられるとしたら他人に感謝する。自分は他人のおかげでいきられるとなる。そもそも人間は様々なことで他人の犠牲やら奉仕やら何やらでじかに感じなくても生かされているのだ。そして人間だけではない、様々なもの肉食をしているから動物の犠牲の上に命がある。だから本当はニワトリでも自らしめて殺して食べればこれは動物の犠牲の上に生きているのだと実感する。そういう過程が文明では省かれたから命の尊さのようなものがわからなくなった。人間は他者であれ動物であれ犠牲があって生かされているのだ。だから他人の血でもそれで生き延びたとなれば感謝することが当然でありそれを医者に訴えるのはカルトだからである。

カルト宗教団体は常識が通じないのである。輸血されるのが嫌ならば医者にかからなければいいのである。医者側にとってただやっかいなお荷物になるだけなのである。人間は血族とか一族とか血筋とかにこだわるけどそういうものがすべてではないし宗教は逆に血縁と肉なるものから生まれたことを否定している。つまり結婚も否定しているのは肉からではなく霊から生まれることが肉より大事とするからである。兄弟となるのは肉とは血縁とは関係ない、愛し合うものが兄弟なのである。だから誰彼の血だとか他人の血だとかこだわるのはまさにそうした血にこだわっている。別に助けてくれるならどんな人の血でもいいのである。その血にこだわるこことは肉にこだわっている証拠である。いづれにしろカルトには何を言っても通じない、盲目の国である。集団で鎧のように身を固めていて異物を入るのを拒むのである。客観的な評価を拒みすぐに宗教の批判は許されないとかなり一千万人が同調して罰当たるの大合掌になり排除されるのでてある。


カルト宗教団体でも宗教を信じる人は信じられない非常識な人もいるし冷酷な人も普通にいるのだ。だからどの宗教を信じていようとその人間をみなければならない、宗教ではわからない、どんな宗教を信じようが悪人はどこにでもいる。悪人が宗教を利用することも普通なのである。それがたいがいのカルトなのである。あの人は宗教信じているからいい人だなどと思わないし信じることもできないのである。むしろ常識を逸脱する人が多いからつきあうこともむずかしいとなるのだ。自分のいたらなさ愚かさから災いをもたらしてもそれが神仏のせいだとか信仰がたりないとかなったり変なのが多いのである。普通に嘘つきも性格の悪い人もいろんな人がいる。おとなしい人もいるからみんなが悪い人とはかぎらないがカルト宗教団体に入ったらすでにその人はその色にそまり常識を逸脱するのである。教祖様に従うというのも異常であり常識を逸脱する。その教祖様自体が欲の塊りのような俗悪なのが多すぎるのだ。だからこそ多くの人が集められるということである。精錬潔白な人はこの世では一番煙たがられ嫌がられるのが普通である。だから団体化した組織化した宗教はすでにこの世の汚れどっぷりとつかったものなのである。

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/60521769
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック