2012年12月04日

冬の雨(石の時間感覚は文明の時間感覚では計れない)


冬の雨

(石の時間感覚は文明の時間感覚では計れない)


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冬の雨濡れて大石隣かな

冬薔薇隠れて石の雨にぬる
雨にぬれ枯木に烏日も暮れぬ
枯芒雨ぬれあわれいつくかな
この道や落葉のぬれて仮設かな
我が庭に広葉一枚いづこより吹かれ散りにき雨にぬるるも


この石もよくみると平らであり平らであることが安定感をもたらしていた。名前をつければ伏石とかなる。昨日は冬日がさしていた。今日は雨にぬれていた。この家に庭はほとんど手入れしていない、確かに人は住んでいるけどすでに貸家だったけど20年も住んでいるけど存在感がない、隣同士でも何か今は交流がない、他ではあるのだろう。この庭は広いからもったない、でも庭を造るとなると一大事業になってしまう。だから放置されて荒れている。ただこの石を俳句にしたのはずっと見ていても今になってからだった。そこに石があるということをいつも見ていたがそれが確かにここに大きな石がありその石を身近に感じて俳句にしたのは今日が初めてたったのである。
つまり人間は近くのものを良く見ていないしその意味も知らないのである。


石は定着する存在感を示していたから絶えず移動して暮らしている現代の生活にはそぐわないところがあった。ところが誰でも年になれば定着志向になる。どこかで落ち着きたい、あまり動きたくないとなってしまう。特に病気になったりしたら動くにも動けないのである。すると近くがより大事になり近くのものに目をそそぐことになるのだ。隣近所は今は疎遠になっている。そういうのはやはり自然ではなかったのである。隣の庭に大きな動かない石があるというときそれは人間でもありそういう長く住んでいる人があれば落ち着くとなる。ただ隣近所の問題は嫌な人もいて離れがたいということがある。


石にはこの石だけではない、相馬藩内でも写真で紹介したがいろいろな石があるのだ。その石にはそれぞれの性質がある。ただ石というのはそれだけそこにあることが長い、千歳の石、岩となるから石を見ることは長い歳月をかけないとその存在感がわからないのだ。自然のものは長い時間で見ないとその存在感に気づきにくいのである。だから騒々しい都会で石のことを知ることはなかなかできない、石や岩は何か都会とそぐわない、現代文明ともそぐわない、その時間感覚でも動かないという存在感でもそうである。石の時間と文明の時間感覚はあまりにも違いすぎるのである。自然の時間感覚でもそうである。機械化された人間の時間は疎外された本来の原生の時間を奪われた時間感覚なのである。上野霄里氏が言う原生感覚の時間の復帰が望まれるのだが現代の文明生活の歯車になっていたらそれはできない、文明を離脱しないかぎり原生の自然に感動することもありえなくなったのが現代なのである。


ともかく枯芒でも雨にぬれているというとき何か心にしみるのも年である。雨にぬれつついつくということがある。いつくほかないということもある。仮設でも二年近くになると一つの定着した風景になる。落葉が雨にぬれて仮設の人が歩いている。ああ、選挙戦がはじまってうるさくなった。政治はどっちにしろ期待できない、結局より悪くない所を選ぶほかないのが選挙なのかもしれない、民主党のような甘言にのって大失敗をした。よりよい、もっとよい、最高のものを選んだ結果だったのである。悪いことをしない、実行できないことは言わないというのも誠実でいいとなった。政治だけではどうにもならないのである。政治で今の経済を良くしたりできないからである。

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