2007年10月20日

秋深む(墓のいろいろ)

daizahaka.jpg
 

老人の猫と話すや昼の月
 

酔芙蓉なれば寄りたし変わる色

虫の声夕べひびくや墓所の奥

墓倒れ無念無常や減りし虫

台座のみ残せし墓や秋深む
 
あそこの墓はかなり新しい、明治すら少なく大正で死んでいるのが新しいくらいだ。江戸時代のはほとんどない、江戸時代のはそもそもこの辺では墓でも石碑でもすくないのだ。墓にもいろいろあくものだ。墓には台座しか残っておらず墓石がなくなっているのもがすかなからず必ずある。これはどういうわけなのかどこでもそういう墓がある。墓石だけが撤去されたのかそのあとに小さな石塊を置いたりしている。それも墓の印なのか花をささげているものもある。今回のは墓が倒れてあってもそのままだった。これを人間にみたてるとなんか無念だなという感じがするとともにちょっと滑稽でもある。墓でもやはり古いものには重みがある。でもここは古い墓は少ない、墓誌も少ない、村の墓所の方が古いのが多い、江戸時代のもあったからだ。六五才とか三五才とか死んだ年齢は石に刻まれていた。それくらいしかわからなかった。
 
老人は一人暮らしになると話し相手が必要である。一人暮らしをしていなかったから友達もこない、それでアパ−トに猫がくる、その猫とにらめっこしていたという。猫が勝手に入ってきたこともあった。猫にもいろいろあるらしい、毎朝起しにくる利口な猫もいるとか、老人と猫は昔からあっていた。猫とか犬に財産を残した老人もいた。猫と犬しか慰めるものがいなかったというのも悲しい。老人の一人暮らしの問題は親戚の一人暮らしの認知症だと怖い面がある。認知症は意欲がなくなり一人暮らしで何もしなくなる場合がある。ただ部屋にじっとしているだけで何もしなくなる・・・そうするとボケがかなり進行しているからあとで怖い、ボケというのはめんどうみるのが大変になるのだ。他人だから関係ないというが今は人権の時代だからほっておくわけにはいかない、誰かがめんどうみなけりゃならないとすると一人暮らしの老人も社会の問題になるのだ。


老人もつきあっても面白いこともある。でも認知症の人は同じことを延々としゃべりつづける。これは聞いている方も嫌だというのではなくノイロ−ゼになる。少しでも変わったことをしゃべればいいのだがまるっきり同じだからだ。悪化すると延々としゃべりつづけるらしい、壁に向かってもしゃべりつづける、老人は同じことをしゃべるものだというのとは認知症となると違うのだ。しゃべったことをまるっきり忘れてしゃべりつづけるのかもしれない、こういう人とは普通は一緒にいたくない、でも病気だからと思いしかたなくいる。他の人はそんなことも考えないから付き合いがなくなるのも問題である。酔芙蓉の花は色が変わるというとき話しもまるっきり同じではない何かしら変わることなのだ。話すことは人間にとってかなり頭を使う高度な作業なのだがそれも失われてくる。まるっきり同じことばかり話していたらそれはロボットと同じである。知的能力の低下はロボット化なのだ。これは認知症でないにしろカルト宗教団体とか政治団体でも同じことを主張しつづけている、そこに創造性はないからロボット化しているのだ。ロボット化は何でも明らかに死を意味していることがわかった。

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