2006年04月22日

春の朝の林(山に行き息抜き)

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そよぐ風空の青さや朝桜

朝の風林に鳴りて芽吹きかな

健やかに目ざむ春の樹々かな

今生れて朝の光に蝶の舞ふ

幾筋も朝の沢音や芽吹きかな

野の梅の香りに満たさる真昼かな

水仙や誰か汚さむ水清し

一際に黄色あざやかキセキレイ春の林に朝の光満つ


今日は雲一つなかったが風が強かった。山の方に自転車で行ったが風で進めず早めに引き返した。春の朝の林は透き通るような光の中に映えていた。近くに自然があるのでちょっとなら息ぬきできる。でも認知症とか介護の問題は目を離せない、休息がとれないことなのだ。自分の場合一人だから余計そうである。親戚の人がこれも実際は親戚というよりあつく世話した人だからきてくれている人である。兄弟でも近くにいるのに介護で困っていてもきてくれない人がいる。どうしてもかえって困った家には人がこなくなるのだ。めんどうになるし手伝わないと邪魔になるしなかなかきずらくなるからだ。認知症でも普通の人とつきあうこと自体むずかしくなるからなかなか家には訪ねてこなくなる。世話になるときは来るのだが困った家にはこなくなるのだ。来てくれるのは前に世話した人なのである。

介護する人も介護ばかりに集中していたら気が滅入ってしまう。やはり外の健康な新鮮な空気を吸う時間が必要だし与えられるべきである。デイサ−ビスとかショ−トスティとか利用したくてもめんどうでしていないし福祉のサ−ビスは地方の小都市では充実していない、都市間で福祉のサ−ビスは差がありすぎるのだ。介護には介護される人もそうだが介護する人の問題も大きいのだ。いつでも自由にどこまでも行けたのが全く4、5時間自由になることがやっとになるとは思いもよらなかった。それでも今日は快晴で春の空気を吸った。介護する人にも活力が必要だし自由な時間でリフレッシュできなかったら介護はつづかないし介護だけに犠牲になるのは大きな問題なのだ。人間は介護のためにだけ生きているのではない、それだけに犠牲になるのは愛がないとかの問題ではなく介護が介護する人の人生や生きることすら奪うとしたら介護とは何なのか?そこはむずかしい問題にしてもお前は愛を説いているのに愛がないではないかと責められる問題なのか?もっと信じられない苦労をして介護する人はどうなるのかとなる。介護が一年くらいだったならしかたなく耐えるほかないとなるがその期間が長くなると犠牲になることも多くなる。介護には確かに単に家族だから当然だとか愛をそそぐべきだとかだけではかたづけられないむずかしい問題がある。とにかく介護する人もリフレッシュする時間が絶対必要なことは確かなのだ。それまで奪う介護となるとこれは生きることすら奪われてしまうのだからそこまでする介護とは何なのだろうと疑問になって当然に思えるのだ。


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