遠山に日のさしあわれ初時雨
三色の晩菊ここに落ち着きぬ
これが類似俳句になる。芸術は音楽でもそうだけど類似なものがある。詩でもやはり外国でも日本でも変わりなく自分の作ったものと同じ様なものが結構あったからやはり追求していることは芸術では同じなのである。ただ俳句となると外国からは風土に根ざしたものだから理解しにくいのである。
今日は本当に初時雨だった。時雨というと何かこれが時雨なのかどうかわかりにくい場合がある。
今日が初時雨だというとき季節的にあっている。ぱらぱらとふってすぐやんだからこれは時雨だった。秋が短く冬は冬になった。秋が長びくというものでもなかった。暑かったから秋が短くなったのである。だからまだ晩秋という感じにもなるが明かに太陽も冬の日になっていたし時雨になったことは冬なのである。日本人の共通の話題が天気になることがわかる。天気が四季で明確に変わってゆくからである。それであいさつも天気のこととなり俳句が生まれたのである。天気のあいさつのようなものが洗練されて俳句という芸術になったのである。
日々変わるからプログには向いている。特に季節の変わり目、夏から秋とか秋から冬とかに変化を感じるから書くことも多くなるのである。時雨はまた老いにふさわしいものでもあった。時雨の風景は何か墨絵ににていたのである。時雨を感じるのは都会の騒々しい所では感じにくい、そういう余裕もないだろう。最近日本人の感性が衰えたというのは本当だろう。これだけ都会化して騒々しくなると自然の感性も衰えてくる。車だったらまず自然を感じない、風も雨も時雨も感じないのである。
歩いていれば自然を感じる度合いは全然違っていたのである。そういう所からも日本人的感性は衰えてしまった。ただ日本の自然は変わりなくあるからなお俳句や短歌は追求されているのだ。
残る虫が一匹朝の野に鳴いている。この辺では刈田がない枯れた草原になってしまった。まさに野なのかもしれない、別に虫がいなくなったりしない、でもなんか少ないような気はする。でも誰もいない野に虫の音だけが朝ひびいている。これが都会だったら車の騒音やらなにやらで打ち消されてしまうだろう。今都会では自然への感性を磨くことはむずかしい。晩菊が畑に咲いている。老いれば人間は落ちつく場を求める。仮設だとやはり落ち着かないだろう。でもなんか一年半過ぎて仮設でもなじんできたというか落ち着いてきたというかそんなふうになった。人間は何か落ち着くにはなじむにはなんでも時間がかかるのだ。