みちのくの万葉集の歌の意味するもの
(福島県の古代-みちのくの大地を深まる秋に想う)
会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね (万葉集 14−3426)
会津大塚山古墳は後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土した。
『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。
吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。
安達太良の 嶺に伏す鹿猪の 在りつつも 吾は到らむ 寝処な去りそね
陸奥の 安達太良真弓 弦著けて 引かばか人の 吾を言ひなさむ
陸奥の 安達太良真弓 はじきおきて 反らしめ置なば 弦著かめやも
この歌で注目すべきは鹿、猪に例えている妻問い婚の原初的世界があり狩猟時代の世界があった。真弓という弓がでてくるのは万葉集時代の蝦夷の武器は主に弓でありこれは狩猟のとき使っていたから武器として使いやすいから弓が常にでてくる。弓は日常的に使うものだった。
安積香(あさか)山、影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を、わが思はなくに
葛城王陸奥国に遣はされける時に、国司の祗承(しじょう)、緩怠なること異に甚だし。ここに、王の意悦びずして、怒りの色面に顕れぬ。飯饌(いんぜん)を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女(うねめ)あり、風流(みや)びの娘子なり。左手に觴(さかづき)を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なり、といふ。
(「万葉集」巻十六)
滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つかり、
阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
なにはつに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
の歌が書かれていました。
万葉仮名に復元すると、
奈迩波ツ尓佐久夜己能波奈布由己母理伊麻波々流倍等佐久夜己乃波奈
なにはつに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。
天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東(あずま)なる 陸奥(みちのく)山に 黄金(くがね)花咲く(大伴家持・巻18−4097)
福島県は実に広い。ハマ、ナカ、アイヅと分かれていてナカは浜通りからすると阿武隈高原に遮られ遠いし会津はさらに遠い。福島県で一番古く知られたのは会津だったということは古代の中央の勢力がまず日本海から阿賀野川から侵入して会津にたどりついた。
三角縁神獣鏡がみちのくではここにしか発見されていない貴重なものである。これは吉備国と同はんのものであり古事記の吉備津彦が来たとすると吉備国が当時まだ大和が統一されていない時代大きな国だった。そういう時代に会津に来て三角縁神獣鏡を授けた。この時すでに吉備など近畿の有力氏族とかかわっていたのである。それは日本海側から船の交通があったからとなる。「郡山史考」で福島県は弥生人で弥生時代のとき、人口も多く常陸より今の茨城県より栄えていたとある。常陸はあとから大和政権の勢力などが進出してから開墾されて開けた地域である。その進出はやがて浜通りそいに拡大化したことは史実からも明確である。しかしもともとは阿武隈高原を越えた山側からの方が古く人の交流があった。南相馬市鹿島区の古代真野郷として大和政権に組み入れられる前に「浮田国造」があった。それは毛野王国の系統であり今の栃木県との交流を物語っているからだ。弥生時代に福島県が栄えたというときその前に縄文時代があり山側の方が人口が多く栄えた。山村は今思うより自給自足する生活には向いていた。山の幸や木材資源に恵まれ薪としての燃料や特に水に恵まれていた。弥生時代に稲作が行われたとしても水が豊富で水の質が良くないと稲作はできない、稲作は最初の内はだから県(あがた-上田)で行われた。それは良質な水に恵まれていたからだ。平地は湿地帯であり
まだ開拓されていなかった。だから奈良でも広い平地があっても最初は広い湖であり沼地であり湿地帯であり人は住んでいない、山際に大きな古墳が並び山を神体として住んでいた。大和は山戸であり山の入り口のことだった。三輪山がそうであった。
日本書紀によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見えるヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラと読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかという
この説は笠原というのも笠氏の系統になる。真野という地名ももともと味真野で吉備国にあじま神社がありアジマは葦間であり葦間から葦真野になり味真野になり真野になった。地名の由来が吉備国から出ていたのではないか?そうすると会津の吉備がかかわった大恷R古墳のことも納得がいく。つまり吉備国由来でありそれがみちのくの真野の草原に通じていたのである。真野という地名がもともと葦間野だとすると更に萱の原があったということは疑問になる。草原は伽耶氏に由来して伽耶国をイメ-ジするようになる。
あしひき--の足は葦だった
(みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)
http://musubu.sblo.jp/article/57107299.html
岡山市北部のごく限られたエリアでありながら、重要な文化財が集中する足守地区。
足守の地名は、古くは日本書紀応神天皇二十二年(推定五世紀初頭)の期に「葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」の記述に見られます。「葦守」が「足守」に転じており、「葉田」は「秦」を示します
古代足守郷に勢力をふるった賀陽氏の名が刻まれていますが、宮を創建した吉備仲彦は香屋臣(かやおみ)の祖。その血統が賀陽氏に引き継がれているといいます。
会津の吉備からもたされた三角神獣鏡があり真野という地名が葦間であり葦間から葦の間に見える野ということで真野となった。そういう地名もここからもたされた。こう重ね合わすとやはり吉備が深くかかわり真野の草原の地名が生まれということも類推される。
いづれにしろ安積山の歌はしがらき宮の木簡の発見でもともと手習いとして暗誦していた民謡のようなものだった。郡山は江戸時代にも開けていない、須賀川や二本松が福島県では中心で栄えていた。だから明治維新のとき一時は二本松県になっていたのである。だから二本松の城はその天守も高く四方を見回すとあそこが福島県の中心だと地理的直感として感じるし古代もそうだった。
安達太良の歌は郡山の安積山の采女が歌った浮いた宮廷人の歌とは違う土着的なものとして歌われているから異色なのである。なぜなら安積山の歌もそうだけどみちのくの真野の草原もやはり都から見た思われたものとして歌われているが安達太良の歌は地元から土着的なものとして歌われているのである。土着的なものとして歌われているのがみちのくにはこれくらいしか万葉集にはないのである。
福島県がすでに弥生時代人口が常陸より多かったということは山際に豊富なきれいな水を利用して稲作がすでにはじまっていてそこに大規模な灌漑、池を作る技術をもった渡来人などを主流とした人々が開拓に入ってきた。福島県の場合、多賀城以北のように蝦夷との戦闘はそれほなかったらしい。
というのはここの海岸沿いの鳥打沢の大製鉄所跡でも発見されたのは武器かと思ったら仏教関係のものが多かった。唐神(韓神-カラカミ)などの地名が真野郷にあることでもわかる。各地に国分寺が建てられたのは平和的に大和政権に組み入れるためだったのである。常陸の広大な平地は渡来人などにより大規模な工事が行われて稲作地帯になった。大仏に鍍金するためにみちのくに黄金が発見されたことを都では喜んだ。福島県は奈良と近畿とすでに深い関係があった。意外と会津が奈良からすると遠く今も僻地のように思うが古代は近畿地方とも日本海を通じて川を通じて深く結ばれていたのである。
みちのくと言って芭蕉の時代でも盛岡まで行っていないのである。平泉までがみちのくのようになっていた。でも岩手県だけを加えても実に広い領域なのである。岩手県だけでも相当に広い。この広い地域はさらに道の領域だった。歴史をふりかえるのは重層的なものとして形成された、大地と一体化して形成された歴史をしることである。みちのくの大地というときまずもともとあった原自然があり次に歴史的に形成されたものがある。みちのくは鎌倉文化がゲルマンににているというとき、みちのくもゲルマンの深く広い森の領域でもあった。そこに重厚な文化が形成されるバックグランドがあった。この大自然のバックグランドなしに何ものも成らない、文化もこの大地に根付くのである。
みちのくも蝦夷が何かわからないにしろゲルマンのようになっていたらそこにゴシック建築やら荘厳な重厚な文化が形成されたた。鎌倉文化がある程度そうなったようにみちのく独自の文化が形成された。そういう自然の基盤を持っていたのである。今でもやはりそれは変わりない、なぜならどうしても会津は広く深い山国でありここをなかなか直感的なものとしてとらえられないのである。浜通りに欠けているのはまさに安達太良もそうだが高い重厚な山なのである。阿武隈山脈は山ではない高原地帯でありここに高い山はないのである。だからどうしても重厚なものを感じないのである。
みちのくというときやはりその大地から離れて何も成らない、その大地にバロック音楽などの重厚なものがひびきわたる。音楽すらそうした大地の森の背景なくしてひびかないのである。人間もそうした自然のバックグランドがなければ偉大になりようがないのだ。その自然のバックグランドに映えるから人間も巨大化するのである。東京のような大都会だったら巨大な高層ビルが主人であり人間はただ蟻のように徘徊しているだけである。秋深まるなかやはりみちのくは何かというときその深い広い大地を思うべきである。だからこそ原発事故はそのみちのくの原自然を壊したから許せないのでありここに住む人も深く反省しないと東北の未来はないのである。文化がここに栄えることはないのである。
みちのくの大地はいしずえ根ざしつつ都を想ふ秋深まりぬ
原自然の大地なくして本当の文化は生まれないし育たない、深まる秋にみちのくの大地を想うべきである。
●参考
私の郡山史考
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/folder/399057.html