2006年04月21日

春の嵐(神の万能 人間の力の限界)

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人の世の運命(さだめ)は老いてなお変わる
        時ならぬ嵐に花の散るかな


人間の運命はつくづくわからない、90になっても運命は変わり翻弄される。認知症というわけのわからない病気に襲われる。このことばかりここ2、3カ月考えつづけてきた。この病気が何なのか未だにわけがわからない。難病というのが人間にはかなりある。そして直らない病気もガンなどかなり今もある。そしてつくづく感じたことは人間の無力と限界であった。認知症の重度から死んでゆくひとを見たら人間はこんなに無惨なものかとあまりにもショックを受けるだろう。認知症になると知能が5、6歳になってしまうというショックである。人間はこんなに無力化されて無惨に死んでゆくのかという人間のみじめさに愕然とするだろう。そこにどうしても人間の無力さを人間の力の限界を感じたのである。確かにアルツハイマ−にきく薬とかガンにきく薬とか病気に対抗して人間の力で立ち向かって成功した例はある。結核などはそうである。人間との病気の戦いは延々とつづいている。野口英夫なども細菌にやられて死んだとか病気との戦いは世界的に人類的課題として科学者によりつづけられている。それでもこの認知症であれなんか結局直らず無惨な最後を迎えている。そもそも老化がとめられないということが医学の限界なのである。老化は克服できない、老化とともに確実に死がやってくるのだ。

確かに科学の医学の発展には目を見張るものがある。それでも人間の力には限界がある。病気でも老化でも認知症でもその人間の無力さの人間の力の限界を感じてしまう。神は万能であるが人間は塵にすぎない、塵に帰るというのもそうである。神から見ると人間の力などたかがしれているのだ。人間は無力化されてはかなく死んでゆくのだ。これは王様でも地位を極めた人でも億万長者でもみな同じなのだ。最後は無力な老人と化してはかなく終わる運命にある。
どんなに人間がこの世の様々な問題を解決しようとしてもできない、そこに無力感がでてくる。医者でも患者を直せないので無力感をもつ、結局自らの科学でも限界を感じて奇跡を求める心がわかる、なんであれ信仰でも奇跡を求める、それは医学でも病気が直らないからそうなる。直らないとしても直ると言う人があれば藁にすがるように頼るのは責めることはできない、実際奇跡が必要なのだ。主キリストの一生が聖書が奇跡を記した書であることがそれを証明している。神の奇跡なくしてこうした人間の無力感は解決しない、人間では解決できないから万能の神に期待するのだ。神の奇跡により一変して神の国は与えられる。人間の力では以前としてこの世は罪の世であり変わらないのだ。結局罪の繰り返しであり詐欺でもその手口が変わってゆくのと同じである。手を変え品を変えこの世の罪の世界はつづくのである。

自分自身もそもそも普通の人より劣った人間で結局その一生で何をしたかというほとんどなんにもできなかったのである。要するに無能人間の一生だったのだ。しかし自分で優秀だと自負していた人間も認知症になると全く無能化されるから戯画化されるからそれもむなしかったとなるのだ。人間はしょせん自らの力を誇ってもたかがしれている。人間は無力であり無であり神は万能だから神に望みをいだくし神に祈る他ない、人間は人間の力で様々な問題を解決できない宿命にあるのだ。努力は無駄ではないにしても老化であれ認知症のような病気をふせぐことはできない、人間の死は荘厳であるべきなのにあまりにも動物より無惨な死というものがあったのだ。人間は老人になれば知恵あるものとして神に近い存在になるというのが古代にはあった。それが高齢化社会では認知症になるとこれが人間なのか?というあまりにも無惨な姿に人間の非力を無力さを目の当たりにして愕然としてしまうのだ。

脳というのはステレスが加わると特に老人は耐久力がなくなるから記憶する海馬が傷つき破壊されやすい、マウスの実験でもステレスを長い間かけると記憶の領域が傷つくし人間も長いストレスは認知症になりやすくする。現代はまさにストレスの時代であるからこれは老人にも影響する。老人は現代文明のストレスに耐えられなくなる、それが90とかまで長生きするから余計に耐えられなくなっているのだ。森のような深い緑に海のような青い瞑想帯につつまれる必要があるのだが今や人間は文明という人工物に囲まれている。だから脳がストレスをためて一番弱い老人の脳に影響して認知症がふえているのではないか?文明の発達していない国の老人が尊敬されたり沖縄では老人のボケがいてもあたたかくつつみこむ社会があればそこがいやしの場になりボケはないのだというのもわかる。人間は自然から離れ自然体としての人間社会から文明社会になりストレス社会で生きねばならずそれで80以上という人間の限界の歳になると認知症のようなものになる人がふえたのだ。こうした瞑想的環境にあると記憶力とかも回復するとか認知症も回復するとか言う人がいるのもわかる。穏やかな心になっていると脳の能力も働くし回復しやすい、そうした環境が文明社会から失われたことが認知症がふえた一因である。

ソフトはみんな違っている。それでただそのソフトで特に効果とかで遊んでいると偶然にできる抽象画がある。これは明らかにパソコンが作りだしたア−トだ。絵がまるっきり書けなくても抽象画がパソコンで偶然に作れる。上のも抽象画として面白い、抽象画の分野はパソコンに向いていたのである。

瞑想の領域

深い森の緑につつまれ
深海の群青につつまれ
瞑想の領域の守られぬ
一条の光がさしこみ
隠された花のひそかに咲きぬ
そこに妙なる花は微笑みぬ
外殻は狂乱の世界
何故に脳は破壊されしや
そが心は狂乱の妄想に陥りしや
そが心は休まざりしや
深い森の緑につつまれ
深海の群青につつまれ
やさしい小鳥の歌を聞き
騒擾なき深海を泳ぎて
そが心は休み眠るべし
瞑想の領域は乱れざるべし
そこに安住はあるべし


参考

偉大なる個々の死を・・・(上野霄里氏の文明批判)
http://www.musubu.jp/jijimondai24.htm#ueno

こうした自分が追求した死と認知症とかで死ぬ死はあまりにもかけ離れている。高望みはしないにしてもあまりにも落差が大きすぎたのだ。人間の死は様々であるが認知症で死ぬのは最悪になってしまうのでは?
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