2006年04月20日

春の庭(病気の暗さへの対抗)

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様々な花植えいやす春の庭


認知症は確かに深刻な病気だしガンでもどんな病気でも深刻である。どうしても人間は病気になれば暗くなってしまう。認知症の重度な人に実際に接していないからわからない、老人ホ−ムでもそこには暗いイメ−ジがつきまとう、うば捨て山とかのイメ−ジである。人間どうしても貧困や災害や病気や災難に見舞われると暗くなってしまう。病気は一番人間を暗くするし絶望になる。老人になると病気から自殺したりする人が一番多いのである。あきらめてしまうのが多いのだ。だからこの病気であれ人間を暗くするものとの戦いが必要になる。これは実際ガンになったり認知症になった人でなければその深刻さを分かち合うことはできない問題がある。でも病気でもそれにうちのめされて暗いばかりになっては救いがない。なんらか病気であれ災難であれ人間はそれに対抗して生きるほかない、自分の家族の場合、もともと勝気であり天真爛漫な性格とか反映して友達をもっていて付き合いは普通のときと同じようにつづけているのが救いである。だから自分でもよくなったとか自信がついてきたのである。
人間は確かに不治の病とかこんな信じられない認知症のような病気にもなるのだがこれでもなんらかそこに救いを見いだす、明るい面を見いだす方法を模索する他ない、しかしあまりに重度になった人は悲惨すぎる、人間が壊れてゆくとか人間でなくなってゆくとかになってしまう。だから何かあまりにもそこに救いがない、明るい面が全くない人間の地獄のようなものになってしまう。自分の家族の場合はまだまだそうしたものになっていないからこうしてその症状を書けるのかもしれない、ひどくなると書くことさえはばかられるだろう。人間はみんななんであれ死ぬんだけど死なない命、永遠の命というものが主キリストによって与えられたことも確かなのだ。それは最大の救いである。だから死を怖がることはないのだ。ただどうも庶民的にはあまり高度な救いとかを言うべきではない、庶民には庶民的に接する、あまりむずかしいことは言うべきではない、とにかく不治の病でも認知症でもなんとか明るい方に導く、明るくなるように接する方法が必要なのだ。幸いは性格が勝気なのは手こずるのだが良い面は楽天的だとか開放的だとかになり庭に花をいろいろ植えたり散歩をしたり友達付き合いがつづいているから明るい方面に導かれ自分でも良くなったか言っているのだ。

芸術も実際は癒しになるものなのだ。死の直前まで自然の美を鑑賞する、美しいものにふれ美しいものを探求するのが人間の宿命なのだ。最悪の中にも美しいものが生まれるのが人間ではないか?それこそ人間なのかもしれない、認知症の重度になって娘、息子さえ誰かわからなくなっても施設では不思議なことは親切にした人は覚えている、離れたくないという、家族のことは忘れても愛情をそそいだやさしくしてくれた他人の方が最後に覚えているということはそんな最悪の人間が壊れてしまったような状態でも愛を感じる能力は残っていたというのも救いである。その人にとって最後に覚えていた人は家族ではなく施設の親切にやさしくしてくれた愛情もって接してくれた人だったのである。その記憶を残して死んでいった。そんな最悪の状態でも「愛」だけがわかったということは救いなのだ。明るい面として残されたのである。

いづれにしろ家族が病気になったり認知症になればそれは直らないから何をしてもだめだとなれば暗いだけになる。でも人間はどうしても直ると良くなるとか明るい面を追求する。暗いだけをみると自殺になってしまうのだ。それで新興宗教で直らないのに直るといえばだまされるのもわかるのである。藁をもつかむ思いでそうなっている。自分もなんとか認知症でも悪くなることばかりが多いので良くなった例をインタ−ネットで探している。これが人情なのだ。悪い例ばかり読んでいたら暗くなるばかりだからだ。芸術も確かに暗さがあっても少しでも明るいものが見えないと読んでも絶望してしまう。人間は絶望の底からでも一条の光を求めて生きる。そこに人間の人間たるゆえんがあるのだ。
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