2007年10月16日

残る虫


町中の畑に実る秋茄子

秋の薔薇四五輪今日も見て帰る

アパ−トに90過ぎの母残る虫
 
一万くらいの町だったら町のなかに畑が多い、自然のなかに町があるのだ。大都会だとまず畑や田んぼがないとしたらその実ったものを見ない、自ら栽培しなくても田舎では農が誰でも身近にある。この句もなんのことはない、見たそのままなのだが季節の移り変わりを秋茄子の実りを示している。茄子は南国が原産で夏にうまい、茄子は私は焼いたのでも漬け物でも好きである。
 
現代の高齢化社会については高齢化社会研究者みたくなってしまった。意外なのは中国は一人っ子政策で一番深刻だったことである。そして高齢化問題は日本だけではない、世界的なものとして二一世紀の課題となっているのだ。江戸時代の隠居は30過ぎて隠居になったとかあり今の感覚の隠居とは違っていた。
 
財産を子どもに譲る代わり、その1―3割を隠居料として確保。米や金銭で支給させ、隠居用の家も建てさせたという。それは親子の情愛というより契約関係であり、実際に契約書をかわす例もあったようだ。

隠居は家督を譲ることなどして自分の好きなことをするとか積極的な意味をもっていた。隠居となると用なしというふうに見るのは現代的感覚なのである。30代で用なしになること自体あたえないからだ。90まで生きる現代の高齢化社会はとても過去の時代を参考にできるものではない、隠居ということすら全くあてはまらないのだ。経済的には年金も何も保証がないのだからこのように厳しい保証を要求しそれが成されなければ隠居などでできなかっのであり裕福の家しか隠居はできなかった。ご隠居さんなどと呼ばれていた人は裕福な家の人だったのである。
 
これからの高齢化社会はここの家庭では様々な様相を呈してくる。認知症になる老人や介護でで苦しむ家庭もあれば退職して世界旅行して遊ぶ老人とかその明暗はいろいろになるが90まで親が生きているとなるとそこでどうしてもなんらかで認知症とか介護にかかわる人がふえてくるからこれは長寿社会の暗部なのである。俳句でも90才・・・となるのは普通になるがこれは今までにない感覚の今の時代を写す俳句となる。90才を当たり前のような年齢として題材になるのが高齢化社会なのである。
 
インタ−ネットはこうしてなんとか毎日俳句エッセイみたいなものが書けるのは他から情報を簡単に仕入れることができるからだ。これも現代的読書の方法であり書き方なのである。
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