2006年04月18日

夕鶯(里山で息抜き)

uguisuyuu.JPG



夕鶯鳴き合う声や里の山

心地よく花見に疲れ眠るかな





今日も我が家には春の珍事というものがあった。まあ、認知症という病気はわけわからないのだ。今回のアクセス記録を見ると「看護の俳句」とかあったからこれなどはここにマッチしたわけである。これは読まれているなとわかる。だからアクセス解析が必要なのだ。でないとどういう人が来ているかわからないのである。毎日百も外国の宣伝のリンクからくるのには嫌になった。とめる方法がないのだ。これがインタ−ネットの弱点だった。今のところここしか更新していないのでアクセス解析も今はこのプログしか見ていない、これだけだとアクセス数は限られている。あまりふえもしないようだ。

ここも桜も満開となり認知症の病人も今は穏やかであり落ち着いている。まだ普通の付き合いができているのか、そのへんが不思議である。もともと人よりなんでもできたし賢いやり手の女性だった。それが認知症になってその能力が失われたのだがそれでもまだその人らしさとか正常と異常の区別がつかないときがある。この認知症は本当にわかりにくい病気なのである。不思議なことは正常と異常は異常が何か知るとき正常もわかるということがある。正常な人にも異常は存在する。面白いのは刑務所のような閉ざされたところでは妄想を見やすい、妄想が作り出されるという。妄想が一時ひどいときがあった。それは朝早く起きて眠れなかったからである。妄想を防ぐには昼間十分に活動しないとだめなのだ。今は夜は眠れているから妄想は見なくなった。今日もかなり花見の散歩に費やしたから心地よい疲れとなって眠れるのだ。

まあ、いろいろあったがいまのところは自分にも精神的余裕ができてきたのである。この結論はどうなるのか自分にもわからないのだ。相当な不安があるのだが先のことがわからないのだ。この老化がかかわる認知症はある程度回復することがわかる。回りのかかわりかたによって回復する。一時付き合いが断られた友達とまたつきあいだしたというのは気分よくさせたからだ。軽度であれば認知症は地域社会でぎこちなくても適合できる。家族とか地域とかが認知症を回復させる場となることが理想的なのだがこれは軽度であればできる。これが症状が悪化すると普通の付き合いとか地域での社会生活もままならなくなり孤立するからむずかしくなる。今のところは自分にも余裕ができたので多少のんびりした。
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