2012年10月13日

秋薔薇(二両の電車の不思議)

 


秋薔薇(ニ両の電車の不思議)


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鴨の数数えにけるや新田川

萩散りて今日もこの道あざみかな
夕陽射し二輌の電車芒かな
一輪の秋薔薇散る田舎駅
二駅を過ぎて終点秋薔薇
秋薔薇二輌の電車人まばら
虫の音や二輌の電車今日も行く


夕暮れや東風になびきし芒かな川を下りて鴎帰りぬ

山からの北風受けて川上る鴎寒しや芒なびきぬ

二輌の電車にのるのも不思議である。今までは八両であり急行も通っていた。ただ別に東京のように満員電車にはならない、すいているのが田舎である。でも前とは何か違う、二駅一駅すぎて終点だから急ぐ必要もない、たいがい電車でも次はおりねばならぬと意識して心がはやる。急ぐようになる。でも常に終点になるから急ぐ必要もない、乗っている人もまばらである。すると奇妙だけど前よりはずっと落ち着いたものになる。だから回りの風景が余計に身近になり映えるようになる。電車はやはり早く過ぎてゆく意識がある。二輌だけで行き来しているのはかなり贅沢でもある。やむをえず運転しているのだろう。電車とバスとは乗った感じが同じ距離でもずいぶん違ったものになる。
電車はやはり何か乗り物としては感覚的にバスや車とは相当違ったものである。精神に及ぼす影響も相当違う。電車の旅が長いし電車が過ぎだからいろいろ興味をもつけどこういう経験も不思議である。

思うにいかに人間は乗り物や交通に精神が影響されるかをこの二輌の電車は語っているのかもしれない、車社会だけどもし車が走らない世界がどうになるのか?おそらく今回の二輌の電車以上に自然がより密着して映えることになるだろう。目の前をひっきりなしに車が行き来していることが風景を変えてしまっている。同じ風景でも違ったものとして見ている。本来は車も電車すらなかったら風景は人間にじかに反映するから違った見える。自然の風景すら電車や車で変えてしまったのである。

ともかく東京辺りだと都会になると秋薔薇に気づき映えることはない、あまりにもあわただしく自然は見過ごされる。そして満員電車とかなるとただただ物ののように運ばれるだけになる。だから都会には大学四年間で住みたくなくなった。何か極端になるけど自分の性分なのだが生きた心地すらしなくなる。そういう所につめこまれて未だにぎゅうぎゅうづめて住んでいることが不思議である。
日本の人口は八千万でも多いというのは本当だろう。余りにも余裕がなさすぎるのである。

これでは鬱病も増えるし人間関係すらうまくいかないのは当然である。その点田舎はこんな電車に乗っていること自体相当贅沢である。今は田舎の方がずっと住みやすいし贅沢である。買い物でも通販もなり前とは違う。本屋なんかなくても困らなくなった。インタ-ネットも便利である。今は都会に住むメリットが少ない,かえって混雑しているから特に老後は住みたくなくなるのがわかる。
自分は人から離れ石のように静かになるとき幸福感を覚える。自分の性格にしろそういう沈黙の世界がないことも心が乱れる原因なのである。


ただ田舎もやはり四、五万の人口がないと今は暮らしにくい、川内村で郡山に避難した人たちが便利なので川内村には帰りたくないと言っているのがわかる。川内村は一六〇〇人くらいだとするともう医者も何もない、そういうところには暮らしたくない、ここでもかえって小高と鹿島でも一緒になると便利なものができる。人口が分散すると福祉でも何でもサ-ビスするのに不便なのである。

鴎は真野川を必ず上って飛んでくる。今の時期海から東風(こち)が吹き山からは北風が吹いている。
その風を感じているだろう。今は季節の変わり目なのである。

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