2007年10月15日

金木犀と月


また一枝折りて加えぬ金木犀

鈴虫のこの頃聞こえず淋しかな

実り終え刈田に残るは墓所なりき


金木犀と月は中国では一体になっている?漢詩ではそうなっている。中国の美的感覚はわかりにくい、それは日本の感覚では実感できない広さにあった。川でも大地でも実は空さえそうだった。日本では空の広ささえない・・・、山が多いから空の広さを感じられないのだ。だから星とか月とか空の美を感じることができない、万葉集にも星を歌ったものは一つくらいなのだ。七星とかの地名が中国にあったがこれは北斗七星だろう。蕪村が「月天心貧しき町通りけり」としたとき・・・
   
 邵雍(しょうよう 北宋)

 月到天心処(つき てんしんに いたるところ)
 風来水面時(かぜ すいめんに きたるとき)
 一般清意味(いっぱん せいいみ)
 料得少人知(はかりえたり ひとのしること まれなるを)


月到天心処→月天心・・・ここからとっていたのである。蕪村は画家だから構図的に見ているから大きな風景を詠むことができた。ともかく金木犀と月は一体としての美的感覚は中国の文化でありなかなかわかりにくいのだ。
鈴虫の声が最近聞こえないのはなぜか、実際は鳴いているのか、よく聞いていなからかわからない、スズムシソウとかマツムシソウとかある。
日本の米はどうなるのか−NHKで今やっている、日本は大規模農業に向いていない、大陸のように無限にさえぎるものもなく広がる土地ではない、山にさえぎられ土地がこまぎれになっているからだ。小規模農業にならざるをえないのだ。日本のコシヒカリを売って台湾の安い米を買うようになるとか考えられない時代になっている。つまりグロ−バル化は何回も書いてきたが農業はまさにculture(耕す)−文化なのでありグロ−バル化は文化を破壊する。グロ−バル化による価格競争は文化を破壊するから深刻なのである。桂花と月が一体なようにグロ−バル化できないものが食であり農業である。中国の危険な食料に依存するようにもなるから危険なのである。

稲は刈り取られそのあとに墓所が残っている。その先祖代々の墓所を大規模農業の土地の整備で動かすのは嫌だというのもわかる。農民の墓所は土地とも一体となっているからだ。墓所と土地は切り離せないものをもっていたのである。農業は土地とともに代々受け継がれるものであり工業商業のようなものとは違った文化の上に成り立っているからその文化の破壊は致命的であり日本の心も破壊する危険なものなのである。
こうしてリアルタイムでテレビを見てその感想を書いたりするのがインタ−ネットの醍醐味である。

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