2012年10月08日

寒露(仮設の花屋)


寒露(仮設の花屋)

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クリックすると鮮明に


花買いて秋の夕べや二羽の鳩


I buy some flowers
on the evening of autumn
two flying pigeons
in peace


仮設にも一年巡り寒露かな


89の老とまた会う寒露かな


コスモスの風にゆれにつ芒かな田舎の道を今日も歩みぬ


水澄みぬ手水鉢や三色の菊の映えにき朝の我が庭


今日ありと明日はなき身や残りたる秋の蝉鳴きその声やみぬ


仮設の花屋には結構めずらしい花が置いてあった。四川岩桐というのはめずらしい。
岩桐草は日本でも高山に咲いていた。でも知らなかったし見たこともない、花の世界は高山植物とか世界の花を見ようとしたらそれだけで一生かかる。それだけ種類が多いのである。
花には相当興味をもって見てきた。多くの詩も作った。俳句でも何でもないようなものが秀句となる。ちょうど二羽の鳩が夕べの空に飛んでいて何か平和を感じた。このところ一身上でも本当に苦しかった。回りもまた大災難であり平和を感じられなかった。仮設もすでに一年半以上すぎたとき何かなじんできた。やはりなじむには一年以上かかる。小高の人の仮設は惣菜屋とかうまいラ-メンの店とかは利用していたがこの花屋ははじめて入ったが花の種類が多かった。仙台から仕入れているという、あとの花屋は相馬市の駅前の花屋のことを書いたがあそこも種類が少ない、ほとんど墓とか仏壇にさす花である。花自体を楽しむような花は置いていない、他にもホトトギスの木に咲いているのがあったのもめずらしかった。ホトトギスというと飯館村の山の陰の流れの岸の暗いところにひっそりと咲いていたのを記憶している。あの花は飯館村に咲くにふさわしい花だった。飯館村は山の村だから野の花が咲くのにふさわしい。


花はもともともどこに咲いていたかを知らないとその花のことはわからない、高山植物を買っても鑑賞できない、なぜなら高山に咲いているからだ。そこは岩場であり常に濃霧にぬれている場所である。地上とはあまりにも違った環境なのである。蘭にしてもその花のことが鑑賞できないのは原産地がどこであるかわからないからだ。ヒマラヤの高いところの苔むした老木に蘭が咲いていたのを見た。あんなところに蘭が咲くものかと不思議だった。そういうことを花屋で見てもイメ-ジすらできないから鑑賞できないのである。岩桐草と名づけたのは確かに桐の花を小さくしたような花だったからである。岩場に咲く桐の花だった。登山して高山の花を見たが忘れてしまうのが多い。登山しているとなかなか花をじっくり見れない、疲れていてゆっくりと鑑賞できないのである。花にしても例えば岩場に咲く花だったら岩のようにそこにじっとしていないとその花のこともわからないのだ。移動が早すぎて印象にも残らないし記憶にすら残らずじまいになる。
せっかく高い山を苦労して上ったのだから花を記憶に留めたいが時がたつと忘れてしまっているのである。


今日は寒露だという、確かに北風が吹いて芒がなびいていた。北風ということは冬が近いということである。89歳の老人はボロ自転車に乗っているのをいつもみかける。あの人は丈夫だなと思う。
コスモスに芒がなびいているのも田舎の風景である。今年は田んぼが草茫々になっているから芒が目立つのである。普通ならあそこは刈田になっている。そういう自然の変化がここではあるから何か今までとは違った風景を見ることになる。まず今まで見られない風景を写真で報告したが本当にこんな風景になること自体信じられないというのが未だにそうである。
これほどの無常を感じたことはない、身内の認知症で無常を感じ津浪原発でさらなる無常を感じた。津浪で家族を失った人はどれほどの悲しみと無常を感じているだろうか?家族を何人もなくした人もいる。そういう人も仮設にいて紹介されていた。だから自分の一身上もそうだが人生は過酷だと被害にあった人は感じている。


姉は外向的な人でいつもしゃべり認知症になってからも余計に千回も同じことをしゃべりつづけて閉口した。でも死んだときパタリとしゃべることもなくなった。無言になってしまった。それは夏の間盛んに鳴いた蝉も秋になりぱったりとなきやみ声が聞こえなくなったのとにていた。その時も人間ははかないなとつくづく思った。死んだらなくことも声をだすこともなくなるのだ。そしてこの世で鳴いている時間も短い、本当に今日があったとしても明日があるのだろうかと思ってしまう。それほどの無常感が今回の津浪や原発事故にはあったのだ。だから宗教的でない人も宗教的になる、信仰を求める人がでてくる、これだけの無常を感じたらやはり普通とは違う、親が一瞬にしてなくなったとか子供もなくなったとかその数が半端じゃない、そこには様々な物語が生まれてしまった。とても語りきれないものである。30年も合っていない父親が津浪に流されて死んだ、それを探した消防や警察の人の苦労も並大抵のものではなかった。そして30年間あわなかった父親の住んでいた津浪に流された場所に立って息子は涙を流していた。そんな人もいたのかと思う、野蒜の人だった。あそこも被害が大きかったのである。松島は島でさえぎられたがあそこは前にさえぎる島がなかったのである。
ただあれもただ無常としかいいようがない、あの人だけではないどれだけの人が死んだか、その無常は尽きることがない、戦争も300百万人以上死んだのだからやはり津浪以上に無常だった。ただ時間がたちすぎたので忘れるのである。津波の被害だって50年もたてばやはり忘れてしまうのである。
人間はともかく何でも忘れやすいのである。

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