2012年07月07日

夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩) (松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)


夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩)

(松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)

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夏菊の窓一杯やバスの旅
夏菊や波光りよす朝の海
草原のかなたに光る夏の海
夏鶯松島湾の光るかな
苔むして岩屋の涼し松の影
夏の日に修行の僧の雄島かな
夏日さし杉木立の道苔映えぬ
松島の木蔭の深く板碑かな
四つの洞風の通りて涼しかな
外洋の風に夏日さし仁王島
船を追う夏の光に鴎かな
目印の山の遠きも夏の海

島いくつ浮かびし影や夏の月

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砂浜に波よせひびき夏の日や雄島によりて遠き島見ゆ

亀島と鯨島かなのびやかに夏の波光り双子島見ゆ
早世の若君惜しみ建てにける青葉に映える御霊屋に来ぬ
月光りたゆとう波に松島の島影浮かぶ夏の夜の夢

仙台の青葉にそよぐ夕風や若き等ととも歩み帰りぬ

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夏日松島


松島湾巡船
波揺光海鴎
瑞巌寺門入
杉木立影深
青苔夏日射
岩屋洞古墓


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雄島の松陰


穢土厭離欣求浄土 生死無常自証悟得


松島の岩窟に老僧一人
瞑目深く岩により
松風鳴りて煩悩を払わむ
身を浄めつつ祈りける
松清くして波静かなり
浄土夢見てここに朽ちなむ
松島に人は死なむと
遠き世の人の思いの
ここにこもりて深し
我の齢も尽きなむや
身を清くして仏を待たむ
来迎の島にして聖なりや
一場の夢の世は離るべしかな
波に静かにゆられにつ
鴨はよりあふ友なれや
月さし明るし松影に
眠れる魂の安からむ
津浪にも残れる松や
苔むしにつつ石の仏は古りぬ

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昨日は仙台から松島に行った。電車で相馬まで行きここで15分くらいまって亘理まで行きまた電車にのりかえてと前よりは一時間以上時間がかかるからめんどうになったことと一日しか出かけられないから宮城県が行くのにはいい。仙台で買い物するのも楽しみである。松島に最近歴史的に興味をもった。そもそも松島のはじまりは古く中世であり鎌倉時代前から天台宗の寺があり3000人の衆徒が集ったという、供養の板碑も実に古い中世のものである。それが頼朝が平泉をせめてきたときここも滅ぼされたという、ここまで頼朝の影響があったのかと思った。つまり松島というと伊達政宗しか思いつかないのが普通である。ところがこれだけで松島を語ることは本当の松島を知ることにはならない、松島は相当に奥深い歴史がありそれを知らないと松島は知り得ない、自然的に風光明媚というだけではない、そこにはもっと奥深いもの霊場としての松島がありその証拠が岩窟で修行した天台宗の僧とかこの聖地で死にたいと集まって来た僧たちだったのである。ここにはだから雄島でも死体が骨となってたくさん散らばっていたというときまた発掘されるというときそれを物語っている。


見仏聖人とか言う人もいたことでもわかる。松島というのも今という時間しか見ていない、そして観光というだけで来ている。ところがここはもともと聖地であり祈りの場所でありあまたの僧がここで浄土を願い死んだのである。松島は特に中世からそういう場所として選ばれた。それだけ美しい場所だったためである。なぜ今そういうことが閑却されるか見えてこないかというと仙台の市街から近く住宅街が迫っていてそういう霊場とかの感覚にならない、気楽に観光に息抜きにアベックが行く所でもある。そういうふうに今はすべてが観光地化してしまったからそこが歴史的にどういう意味をもっていたかわからなくなっているのだ。そして観光地で浮かれて遊んで終わるだけになってしまう。それはそれでいいとしてやはり自然と歴史の奥義を究めることがそこに長く住んでいれば必要になってくる。

近くであればそれかできるがまた近くであるが故に見逃すこともありうる。灯台下暗しになるのだ。松島は今回の津浪で被害をまねがれたのは幸運だった。松もほとんど倒れていない、そして福島県から浜通りまで一つの海岸地帯で津浪の被害を受けて海沿いは一つの文化圏を共有している地帯だとも思った。福島県から宮城県から岩手県の津浪に被害にあった所が一つの地理的一体感を感じたのである。福島県では会津とは地理的一体感が感じられない、宮城県の海沿いの方が地理的一体感を感じる場所だったのである。仙台に頻繁に行くし通勤圏にさえなっているから余計にそうだった。
だから宮城県と福島県の歴史はクロスするし重複して見ることができる。これは山形県も岩手県もそうである。この辺を詳しく調べれば遠くに旅に行かなくても一つの世界としてみることができる。


この三つの県でも全体を歴史的地理的にみることはむずかしいのだ。これは地理に精通して全体的俯瞰的にみることがむずかしいのである。歴史になると古代から中世から江戸時代とさらに通観することはむずかしくなる。だから松島が聖地だということも鎌倉時代前から3千人もの僧が集まっていたなど知らなかったのである。その跡に瑞巌寺が建てられた。それは禅宗の寺だった。ただ伊達政宗の時代になると伊達政宗の菩提寺の性格が強くなり見張塔やら墓でも華やかな墓が御霊屋があり伊達政宗をお参りしている感覚になる。とてもここが寺なのかと思ってしまう。伊達政宗にお参りしている感覚になるのだ。江戸時代までは寺は武家に所属する菩提寺だったからそうなる。でも本来の宗教の場ではなくなっている。そういう矛盾も内包している複雑な場なのだ。そういうふうに歴史が積み重なっている場なのである。これはヨ-ロッパのロ-マとかどこの都市でもそうだがにている。ロ-マ時代からの歴史が重層的になっているのがヨ-ロッパである。20歳で急逝した期待された若君が死んだ御霊屋は実に立派であった。そこにはフィレンツの花の水仙とロ-マの花の薔薇が描かれていたのも
ヨ-ロッパ的である。これは支倉常長の影響だったとかヨ-ロッパ式になっているのだ。それでバラの園を裏の方に作っていた。これも寺としては変わっている。それなりに歴史があって作ったのである。

伊達政宗は京都の伏見で愛姫が暮らしていたし伏見城がある所で秀吉に仕えていた。政宗は仙台より京都の秀吉の伏見城で伊達屋敷をもち長くそこにも住んでいた。最上氏も伊達と並んで屋敷をもく地名として残っている。そういう歴史も興味深い、政宗はそうして全国的に活躍して世界的にも視野をもちヨ-ロッパのロ-マにも使者を派遣した世界的視野をもった英傑だったのである。ただ政宗が死んで殉死者が七人いて円通寺にその墓がある。こういうことでも政宗は信長と同じく神のごとくなっていた。信長は部下に殺されたけど政宗はそうではなかった。70歳とか生きたのである。ただ瑞巌寺でも円通寺でもそこは伊達政宗にお参りするのであり仏教の寺とは感じられなくなる。中世は霊場であり聖地であったから歴史を知れば違和感を感じるのだ。伊達政宗をお参りして成仏するということはないだろう。でも政宗が寺の御本尊のようにありその妻の愛姫も子の御霊屋もそうなのである。
ここはもともと霊場であり聖地だったとするとき


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 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)


この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」
と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途
次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に
思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とあ
る。


これは蕪村が松島の歴史を中世までさかのぼる霊場として僧が修行して死んだことを知っているからこの句を作った。もし知らなければ何の意味かもわからない。松島は死に場所としてもいい霊場として知られていたのである。松島で死ぬということは幸せなことだった。風光明媚な地で成仏することだった。でも芭蕉も蕪村も一回しかこれなかったのである。そこに現代との差があった。
ともかく歴史を知らなければこの句の意味もわからないのである。俳句短歌でも歴史を知らないと深く鑑賞できないのである。


次は円通寺の庭の俳句です


 

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