2012年06月27日

出稼ぎ時代から地元の定着を望み原発事故が起きた (破壊された飯館村の平穏な生活)


出稼ぎ時代から地元の定着を望み原発事故が起きた

(破壊された飯館村の平穏な生活)

 


川俣方面へ下っていくと、中腹におせん茶屋の跡があった。赤い頭巾とよだれかけを掛けられた地蔵があった。
「旅の若い石工がこの地のお寺に頼まれて石地蔵を2体刻むことになり、先の1体目は出来上がり、後の2体目を刻むとき、泊まっていた家の娘と恋に落ち、2体目が出来上がると別れねばならないため、思いあまった石工はわざと地蔵の肩を切り落とした」
http://www.musubu.jp/trymiharu2.htm

山国である信州(長野県)では耕地が少なく零細な村が多かったため昔から(冬稼ぎ)といって秋の農作業が一段落すると農民が大量に江戸で出て奉公人になって現金稼ぎをしていた。
伊那郡高遠街の周辺は高遠石工もその一つだった。(那須の民話)
http://www.janasuno.or.jp/soumu/nasuno_minwa/168_takatoo-sekkou.pdf

 


飯館村から山木屋に出る塩の道の途中にあった石地蔵はここから来た石工だったらしい、たまたま「出稼ぎ」というキ-ワ-ドで探したらでてきた。出稼ぎは別に現代の問題ではなく江戸時代からあった。昔から農業だけではやっていけないから出稼ぎが生まれた。冬は農業も暇になるのだからその暇を活かすとういことで出稼ぎが生まれた。東北では雪深い所が多いのだから日本海側からも江戸に出稼ぎにでた。



冬季の出稼ぎが可能となった背景は、2つの理由が考えられる。
一つは、千把扱(せんばこき)の導入である。千把扱は元禄頃に始まり、大正頃まで広く使われた脱穀機で、農業生産手段の大変革をもたらした。千把扱が導入されて、脱穀作業が容易になり、年内に脱穀作業が完了し、出稼ぎが可能になった。

 もう一つは、千把扱の導入によって、冬季の収入源を失った小規模経営の農民が、否応なく出稼ぎに向かわざるを得なかったことである。

他領の酒造家が、南部杜氏を求めた理由は、南部杜氏の技術の優秀さによるものである。18世紀から19世紀の記録によれば、同じ量の米を使って南部杜氏が造る酒は、仙台領の地元杜氏が造る酒の量の約1.5倍から2倍弱にも達し、南部杜氏の酒造技術がいかに良かったことがわかる。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/264290553.html

脱穀作業がなくなり収入源がなくなった。これも現代の出稼ぎとにていた。

わら仕事や薪炭生産がなくなるなど、生産・生活資材のかつての自給から外部依存への変化で冬場の仕事がなくなっていたことも出稼ぎを可能にした。さらに規模の小さい農家の場合には除草剤の導入などで夏の労働力も過剰になっていた。

 こうして出稼ぎが可能となっていたのであるが、必要不可欠にもなっていた。
 耕耘機などの機械の借金は返さなければならないし、かつてとちがって多額の農薬代、肥料代を払わなければならなくなっていたからである。それに、薪炭やわら・ぬかなどが石油・プロパンに代わったように、これまで家族の無償労働で自給生産していた生活資材も有償の資材にとって代わられている。生産費、生活費等すべてにわたって都市の商工業から購入せざるを得なくなり、貨幣支出が増えているのである
http://j1sakai.blog129.fc2.com/blog-entry-114.html


ここは大学教授のサイトだから詳しい。江戸時代にあったことが現代にもあった。ただ現代の変わりようは大規模であった。生活の根本から変えられてしまった。江戸時代から戦後十年まではともかく自給自足で基本的な生活を支えていた。身の回りにあるもので生活していた。田んぼもない土地もないものでも自分の家でも川原の空いた土地を畑にしていた。つまりなんとか自給自足の生活をみんな心がけていたのである。またそうしなければ生きていけない時代だった。

その自給自足時代から高度成長へ急速に変わってしまった。その時出稼ぎが大きな問題となった。都会で労働力が必要となり金の卵が生まれたのもそのためである。出稼ぎも社会問題となったのもそのためである。出稼ぎが別に江戸時代からあったものだったが高度成長時代の出稼ぎ問題はまた違っていた。


「三ちゃん農業」広まる 高度成長支えた居残り家族 


機械化、農薬、化学肥料が労力を軽減させ、三ちゃん農業と出稼ぎの期間を長くした。

耕作面積の拡大とともに、コメの単作から、トマトやアスパラガスといったハウス栽培などにも広げたことで、出稼ぎは「私の周りでは、ほとんど見られなくなった」と米森さんは語る。
http://doraku.asahi.com/earth/showashi/110308_02.html


NHKのアサイチで飯館村の牛を飼っている人が出稼ぎで牛をふやして地元で生活できるようになったとか言っていた。ここでも出稼ぎしていた。それも牛を飼うためにそうしていた。高度成長時代では出稼ぎで農家のことがいろいろ問題にされた。そこに急速な時代の変化があった。原発でもその周辺の町ではやはり出稼ぎ問題があり地元で出稼ぎをしないで地元で暮らしたいということで原発を誘致してそこで働くことで現金収入になり地元で生活する。ともかく農家でも電気製品から車から教育費から何やかにやと金がいくらあってもたりない時代になったのである。基本的に自給自足時代は身の回り物で貧しくても協力して生活するということがあった。でも高度成長時代から金がいくらあってもたりない時代になったのである。原発を誘致したのもそういう田舎の事情があった。基本的に自給自足の生活でいいとなれば原発も誘致する必要もなかったのである。原発でなくても工場を誘致したりアスパラガスを栽培したり飯館村のように畜産や乳牛で生活をして出稼ぎ時代は終息した。

都会に田舎から労働力が流出して都会が豊になる身代わりに田舎では出稼ぎなどで現金収入を都会でえざるえをえなかった。そこで田中首相が列島改造論で公共事業で金を地方に回した。そういう時代が高度成長の時代だった。地方の原発の誘致もそれとにていたのである。地方でかえって誘致に積極的なところがあったのである。東京に電気を供給する代わりに地元に金がおりるというのも極めて象徴的なことだったのである。その結果として東京の犠牲になったのが福島県だったともなる。


飯館村は原発の恩恵をほとんど受けていない、つつましくまでいに暮らすという平和な村でありこんなに騒がれる村ではなかった。それが一転して放射能の村とか補償金をぶんどるだけの村とかにされてしまった悲劇の村になったのである。それは飯館村の責任でも何でもない、そういうふうに原発事故で理不尽にされてしまったのである。若い人はやはり牛にこだわり仕事に愛着があるから復興牧場を浪江の人とかとも共同で起こすと言っていた。でも飯館村には帰れない、帰る帰れないとか議論しているよりもう新しい世界で悩み希望を見いだしたいというのもわかる。農業はどうしてもあれだけ汚染されてしまうとにくいからである。結局帰還できない区域とか居住制限区域とかに分断され
隣の長泥地区は帰還できない地域に指定されて5年間で一人600万支払われ隣の蕨平地区はそうでないから将来の生活設定が立てられないとか不満になり地域でも意識が心が分断されている。

もう補償金をいかにとるかしかなく地域も分断され心も分断されている悲劇である。金だけもらったからといって補えるものでもない、墓のことをしきりに言っていたけど先祖とのつながりが墓にあるからそれも金では償えない、金ですべてが解決するわけでもないのだ。ただ今や金だけがとりざたされる不幸がある。外から見ても内部でもそうなってしまっている悲劇なのである。

失われた平和の村

山と森に囲まれ平和な村があった
ついこの前までそうだった
その人たちを話題にすることもなかった
人々は田畑を耕し牛を飼い平穏に暮らしていた
もの言わぬ牛と広い土地と森と山につつまれ
平穏な村は隠されるようにあった
今はただ放射能と補償金の分捕りが話題にされる村
隣の地区とも金でもめたりと
避難した人も金の問題でうとまれる
金のことが語られないとき平和があった
それは飯館村だけではない
金が問題になるときそこに平和がなくなる
金持ちも財産でもめるし金が人間の欲をむきだしにする
平和な自然との共生の村は失われた
森の中に黙している石のように
知られざる日々が幸せだったと・・

posted by 老鶯 at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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