2006年04月16日

老いの悲しき結末(認知症は社会的環境の病気でもある)

我が家に母のなしかも目だたじも今にし思ふその姿かな

今日もまた日にち知らじ認知症の家族かかえて教える悲しさ


今や私に残されたのはかたや90をこえた老人とかたや認知症の老人である。考えてみればなんとも悲しい結末である。つくづく人間は悲しいものだと思った。老いてみればみんなこうした悲しさを体験する。老いそのものが人間にはどうにもならないものなのだ。老いれば病気になるし今までもっていた力が失われる。生老病死とあるけど老病死となるのが人間の結末なのである。自分の家族の場合、特殊なるゆえの悲劇であるが一般的にも老いればこうした悲しい結末がみな待っている。老いて死んでゆく人間の宿命を誰もまねがれることはできないのだ。認知症とは何なのか?ボケはこの老いに拍車をかけて人間の最後を迎えさせる酷い病気である。これは家族を引き裂き苦しめる。つまりこれは老人特有の病気であり老いと切り離せないのである。老いという悲しさが認知症になると最も酷いものとして現れる。結局高齢化社会はこうした老いの悲しみを信じられない数で接することになるのだ。確かに老いて健康な人も多いから暗部だけを言うことはできないがそれにしてもその数は全体として多いのだからその数も膨大なものとなるのである。80以上になるとこれはやはり人間の生の限界を越すことになりそうなるのである。

ただ認知症は軽いうちなら問題行動が起こさないように回復する。家族が愛情をもって接したりいろいろ脳の機能回復訓練をすると回復する。一時は幼なじみでつきあいをしなかったものが回復したり今までのように地域で生活している。今日は春祭の市に一緒に行った。認知症になるとそうした地域で普通の暮らし付き合いすること自体むずかしくなる。だから地域にいても家族でもいろいろ簡単なことができなくなるから不満になり自信がなくなり問題行動を起こすようになる。変な話だけどデイサ−ビスでは普通の人より劣った人が集まるのでそこではかえっていろいろできない人がいるので合わせられるのでいいとかできないという劣等感を感じないのでいいというのも変ではあるがそうなってしまうのだろう。普通の人に合わせることが容易でなくなるからそうなるのだ。

この認知症の問題は高齢化社会ゆえに生まれた病気である。結核とかガンなどは社会的問題ではない、純粋に体の病気なのだが認知症は老化と関係しているのだから体の病気でもあるが家族関係とか地域とかその人の人生とか性格とか体験とか様々な要因が関係していることが違っている。高齢化社会では今までのような生産第一主義の価値観、核家族とか地域の人間関係の希薄化とかこれらは高齢化社会ではマイナスとして働く、つまり社会的要因も認知症を生む原因になっている。認知症は体の病気ではあるが社会の変化とかにも関係しているのだ。だから医学的な見地からだけでは解決しえない問題なのである。回りの人間関係とか環境がかなり影響して良くもなり悪くもなる病気なのである。

最近隣の5万の市の駅にエレベ−タ−ができた。それで私の家に来る老人が楽だったと言った。実は私の町の駅にはエレベ−タ−はない、普通エレベ−タ−のある駅は少ない、この駅の階段から転がり落ちた老人が近くにいたのだ。二カ月以上入院する大けがをしたのだ。老人にとって駅の階段はかなり危険なものなのだ。高齢化社会になると自動車社会とか様々な文明の恩恵もマイナスに働くことになる場合がある。近くに店がなくなって歩いていくところに店がないのと自動車がひんぱんに通る道路は老人には危険なのである。だから老人の交通事故者がかなりふえているのもわかるのである。老人にとって車社会というのはかえって住みにくい社会ともなる。ただ便利なものがすべて老人にとって悪いものかというと車さえ老人は歩けなくなるから遠くへ行くにはいい道具だしいろいろ使い道がある。ただ現代社会は医療は充実しているが社会的環境として老人にいいかとなると疑問である。スロ−ライフとか言うが老人にとって住みやすい社会とはこれは若者でも住みやすい落ち着いた社会なのである。だから年金問題など老人は無駄だと若者が言うが社会的環境が老人向きになることは若者にも住みやすい街になることは言えるのだ。

参考

沖縄では老人にとって環境がいいから痴呆老人にはならないという
http://www.kg-tokyo.com/memo/ooi18.html
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]