2012年06月25日

NHK【ETV特集】飯舘村 一年 〜人間と放射能の記録〜を見て (飯館村で混乱する人々の事情)


NHK【ETV特集】飯舘村 一年 〜人間と放射能の記録〜を見て

(飯館村で混乱する人々の事情)

●京都の伏見区に避難した若い人


NHKのこのドキュメントは興味深いものがあった。そもそも今回の震災と津浪と原発事故ではその土地の歴史とか避難した人の問題とか毎日のように全国放送のテレビで放送された。普通は地元ですらどんな人が住んでどんな生活をしているかわからない、農家でないと酪農家でないとその仕事のこともよくわからないのだ。それが毎日のようにテレビで放送されたから生々しく見ていた。

今回は飯館村を避難した人は京都の伏見区に移住していた。なぜ京都なのだろうかと思った。そんな遠くになぜ移住したのかと思った。地元出身だから親戚を頼ったわけではない、ただ受け入れる市があれば遠くでも移住している。大阪にも浪江の人が住居などを提供されて移住したのをインタ-ネットのテレビで見た。ちょうど京都の伏見区に興味をもったのは伊達政宗のことを調べていたら伏見区とは深い関係があった。秀吉が伏見城に住んでいた「最上」「政宗」と地名が残るほど屋敷があり参勤交代の江戸のように秀吉に仕えていたのである。現実に政宗もその妻の愛姫(めごひめ)も伏見区に屋敷があり住んでいた。愛姫は仙台に住んでいたのではない、伏見に住んでいて子供も生んでいる。政宗も一年とか何度も長く滞在していた。伏見から世界の情報に通じていたのである。東北だから「伊達」「最上」と並んで屋敷があり地名として残った。


まあ、それとは別にそれぞれ織田信長が最後を迎えたのが安土城にいたとき、豊臣秀吉が最後を迎えたのが伏見桃山城にいたときということで死んだときにどこにいたかでそういうネーミングになったのではないでしょうか?


築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。


露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢


秀吉のこの辞世の歌は伏見城に住んで作られていたのだ。そこが錯覚していた。大坂城のことでそれが難波の夢かと思っていた。安土桃山時代とは安土城と京都の桃山の地名からとった。桃山は華やかな安土桃山文化かからイメ-ジされて江戸時代以降にそのイメ-ジから桃山になったという。安土桃山というとき文化的なものをイメ-ジするからだ。伊達政宗は安土桃山文化にふれ瑞巌寺に立派な障壁画や茶室を作った。そういう歴史ある場所が京都伏見区なのである。

そこで飯館村の人が牛肉屋に勤めているというのも不思議である。牛を飼っていたから何かもう一度畜産の仕事に帰りたいからその仕事についたというのもわかる。それだけ飯館村や仕事に愛着をもっていた。ただもう妻の方は帰りたくない、帰れないとか言っていた。子供を自由に外で遊ばせられるからここがいいとも言っていた。ただ夫の方はなにか鬱的になったとか住居が狭いことなどや空気が影響してなったと言っていた。確かにあれだけ広々とした広い住居に四世代で住んでいたのとはまるで変わった環境になったのだからわかる。そういうことはそこに住んでいなくても予想できた。
今回の津浪原発では若い人と老人では意識に差が生じてそれがまとまりのないものになった。
老人は残りたくても若い人は放射能が危険だからと住みたくないとなる。そして老人は老人だけが住むならそこは姥捨山にされると言っていた。双葉町では棄民だと訴えていた。


田舎と都会の違いはいろいろある。土地をもっていて家があり大家族で今は四世代で暮らしている家もあった。飯館村はさらに農業酪農の村だからそうなっていた。南相馬市相馬市は中心部は街だから違っていた。飯館村は一軒一軒が隣と離れていて森につつまれ悠々と住んでいたのである。住まいとしては理想的だと見ていた。そういう所に住んでいる人が都会に住めるのかとなる。京都は確かに大阪とか東京とは多少違っている。それなりに山に囲まれて自然がある。でもやはり都会なのである。ただ景観的にあまり高いビルを建てることはしていない、それも中心部だけである。町家風の宿にとまったとき前に大きな高いマンションのようなものが建っていたのにはがっかりした。やはり都会なのである。現代は都会に住むメリットと田舎に住むメリットは医療関係が違っているだけでそれほど違わないかもしれない、病気にならない若い人なら田舎でもかまわないとなる。文化的にも差があるにしても現代ではむしろ都会の方が住みにくいのである。飯館村のように住んでいた人が都会になじめるかとなる。それで鬱的になったというのがわかる。買い物でも本でもアマゾンで注文すればほとんどどんな本で買えるからそういう点では別に都会に行かなくてもいい、本を買うために自分は仙台に買い物に行っていた時代とは違っている。


●若い人と老人の分断


飯館村の問題は本当にいろいろあるし深刻だから語りきれないだろう。その問題はさらに悪化して深刻化してゆく、実際に避難した老人の中に弱い人たちは死んでいる、孤独死も増えているという。
飯館村で奪われたものはいろいろある。土地を仕事を何世代同居の分断化で家族がばらばらにされて家族失った。近くの仮設でも孫を来るとか言っていたから若い世代と老人は分断された。飯館村だから四世代で住むことも可能だった。家は広いし家族も多ければそういうことが可能になる。それは昔ながらの生活であった。ただ他から見てわかりにくいのは牛の名前を十頭以上も書いて仮設に張っていた女性がいた。十頭以上もの牛の名前を覚えられるのかと思った。一頭一頭に名前がつけられていることは同じ家族だという意識でそうしていたという。家業としてやっている時は百頭とか飼っている工場的な感覚の経営とは違うからそうなっている。百頭にもなったらいちいち牛に名前さえつけられないだろう。家族の一員だというときその規模が小さければなりうる。考えてみると現代は何でも会社化工場化しているから家族的な経営からはかけ離れている。そうなると人間も番号になり牛だって余計に番号になってしまう。今や人間すら番号で呼ばれ統計化される。それはどこでも規模が巨大化すればそうなってゆく。


飯館村の村長が一人一人の復興をと言っているときまだ小さな村だからそういっている。一人一人をみる村の規模だったのだろう。都会だったらそうはいかない、今は宗教団体でも会社でも工場でも規模が大きいから一人一人より数として計算している。そういう人間疎外の時代である。だからこそ飯館村のような村がかえって人間的いいという人もいたろう。もちろんそうして積極的価値を認めて住んでいる人だけではない、昔から住んでいるから継続として住んでいる人もいる。田舎の特徴は土地とか家とか先祖を誰でも背負って生きていることなのである。死んだ人の写真がどこでも家に飾られているし農家だと先祖代々の土地をもっているし家ももっているし生業も受け継いでいる。そこが都会と違っている。何か都会の方が生活するなら気楽なのかもしれない、
自分も明かに家族の一人は死んだしもう一人もずっと前に死んだし他にも一人と死んだ人を背負っている。農家だったら何代も背負っている。そういう人の継続のなかでも生きているのが田舎である。代々の人の継続が若い人と老人が分断化されて失われてゆく、それにしても京都は遠すぎる。
東京でも離れると福島県でも遠くなり親の介護とか病気のときなど頼りにならない、近くにいる人が頼りだとなる。そういう時若い人がいないと老人はまさに棄民と言ったけど棄民となり姥捨山になる。飯館村では老人が住むのが嫌だというとき支える若い人がいないところではそうなってしまうからである。


●飯館村で相馬市に避難した仮設の人が解雇されたのはなぜなのか?


そのうちに日本一卑しいムラとか、日本一腹黒い除染利権のムラとか言われたら、だれがこんなムラ訪れるか。
もう昔の飯舘村は存在しない。今も。そして今後も。二百年くらいは絶対無理

こんなところに戻るのは、利権がらみのやつらに扇動されるやつか、もうあまり先がなく、故郷なしでは生きられない年寄りだけだろう


これは除染の問題だが除染が利権化して今や飯館村は村に帰れないなら賠償金をもらった方がいいとかなる。除染費用の分を金としてもらった方がいいとなる。一億円もらったら新しくはじめられるとか言う人もでてくる。除染はあまりにも課題が多すぎるからだ。

そして飯館村の人が相馬市の仮設に入ったのだがぶらぶらしているわけにもいかないので相馬市のトマトを作る農家に就職したと喜んでいたが解雇された。なぜだろうといぶかったら飯館村の人は補償金をもらっているから雇わないという。ええ、そんな非情なのかと一瞬それだけ考える人は思うだろう。テレビはそういう一部分の映像とかコメントとかに反応しやすく感情的になるのだ。なんだその農家はとかなる。でも地元でよくよく考えれば相馬市では補償金を全くもらっていない、そして松川浦辺りでは津浪の被害が大きく多くの人が死んでいる。するとそういう人たちの方が現実的に切迫して困っているのだからその人たちを雇うのがいいと判断するのも不思議ではない、この補償金問題ではいろいろもめる。本当に一人十万もらっているとすると田舎では家族が多い場合がありかなりもらえることになる。その他仕事してもらえるとなるとかなりの収入になってしまうのである。
ただ大工とか瓦関係とかは職人が不足しているからそういうことはない、ただいつまでも補償されるかというとそうはならない,いづれやはり自立させられるだろう。生活保護とは違うからである。


そこで問題が起きているのがいわき市などでは補償金で働かない避難者が批判されている。金はあるから金を使うのはいいにしてもそこで働かせられているのは地元のいわき市の人である。補償金もらっている人は毎日パチンコだサウナだとか飲み屋だとかなんかそんなことで遊んでいるのに働かせられていることに不満が生まれた。実際はそういう苦境にある人は逆に下働きで働かせられるのが普通だった。現実に関東大震災なのか北海道に移住した人は餓死したとか書いた。原発事故でも金があるからとそんなに遊んで暮らして地元の人たちはどう思うかとなる。人間は金だけではつくづく物を買えても人は買えない、これは自分も経験したからわかった。人に手伝ってもらって助けてもらうことほど容易なことはない、いくら金だしても手伝ってもらえない、助けてもらえないことがある。なぜならよほど信頼する人でないと家の中では働いてもらえない、家の財産をもっていかれてしまう。。家の中で働いてもらうことはそれほど大変なことなのである。だから避難して仮設で遊んで暮らして人に働かせているだけだといくら金があってもその回りの人は不満になるのである。


カー用品の店員は「この半年で新規会員が急増した」と話す。
「もう毎日毎日忙しくて仕方がない。
まあ商売繁盛でいいんですがね・・・」
と震災バブル景気で喜ぶはずが、
なぜか複雑な表情を浮かべる。
私が聞いてもいないのに、
「ほら、原発避難者の人は働かないでしょ・・・」
と非難めいた口ぶりで話してくれた。
http://mblog.excite.co.jp/user/kasakoblog/entry/detail/?id=18069956


津浪の被害者もいわき市にはいて待遇が原発被害者より良くないとか不満がある。結婚した人が部屋が一杯で借りることもできないとかいろいろな不満が生まれているのである。


いづれにしろ飯館村一つをとっても問題は山積みになっている。それらをどう解決していいのかわからない、先が見えない、村はやっぱり住めないからなくなってしまうのか?まだもどり生活できるのか、これから若い人は暮らすのは無理なのか、俺たち老人はどうしていいのか?そうした不安がうずまいている。一人一人でもその思いや事情は違ってくる。一人一人の復興と言っても村の人の心は分断されている。一人一人復興してもみんなが復興しなければどうにもならない、そういう問題はこれからも長くつづくのである。

 
 
posted by 老鶯 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
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