2012年06月23日

自然に還った夏の右田浜(短歌十首) (鵜が増えて鵜の崎とかの地名を身近に感じた)

 

自然に還った夏の右田浜(短歌十首)

(鵜が増えて鵜の崎とかの地名を身近に感じた)

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青々と草の繁れる津浪跡風にあおられ蝶一つ飛ぶ


津浪跡湿地の水に夏の日のまばゆく光り青鷺の来ぬ


広々と湿地に代わる葦さやぎ青鷺の来て餌を探しぬ


右田浜津浪の跡に鵜の群れて残れる松や夏の夕暮


五六本残れる松の形見かないたいたしかも夏の夕暮


家消えて砂原に来て鳥歩む足跡残り夏の日暮れぬ


津浪跡何か形見と残れるや庭の石残り海の風の涼しも


津浪跡残れるものは墓一つ二本の樹や夏の日暮れぬ


津浪跡神社の跡に船の名の石碑に二十ほど夏の日暮れぬ


海の鳥夕べさえずり夏日射す砂原飛びぬ津浪の跡かな


家もなく土地生業も奪われて何をよすがにこれより生きむ

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自然の状態に還ったというときそれは明かに北海道である。広大な湿地帯がまだ残っている所がある。苫小牧につけば本州とはすでに空気まで違っている。苫小牧でも湿地帯が海岸の方は広がっている。大きな沼、それあ浅い広い沼がありそこに鷺が下りてくる。それとにた風景が津浪の跡に再現している。津浪で流された家の跡が湿地化してそこを歩む鳥がいた。足跡が残っている。鵜も今日は数が増えている。津浪の跡を放置しておくと明かに北海道のような自然に還る、それは都会と違って荒寥とした人工的破壊の跡とは違っている。砂原が広がってアジサシのような海の鳥が甲高くさえづり飛んでいた。北海道でも砂原か広がって葦が繁っている風景をみる。それとにているのだ。


今回津浪にあった所は石巻とか気仙沼とか都会をのぞいては原初の状態が再現している。野蒜浜などももともと野蒜が繁る浜だから名づけられていた。人はほとんど住んでいない時があった。あそこの被害も大きかった。松原はなぎたおされ家もめちゃくちゃに破壊され駅まで破壊され線路はずたずたにされ今でも仙石線のその区間が回復していない。ただ津浪の前はいかにあそこは仙台の繁華な地帯から離れて別荘地のように住みよい場所だった。松原もあり広大な海が広がっていたのである。


野蒜駅おりて松原影静か芒の浜に鳥の足跡


こんな静かな所でもあったのだ。それが余りにも悲惨な状態になった。今回の津浪の跡はテレビなどで見ていると何かぐちゃぐちゃに壊された家ばかり見える。だから何か陰惨に見える。でも実際は都会ではないこの辺は北海道のような自然に還っているという不思議があるのだ。自然に還るということは自然は破壊されていないのだから美しい原初の自然が還ったとなる。松原も美しい光景だったけど砂原に還ったり湿地帯に還れば北海道と同じ風景になっている。おそらくこれから何年も何十年も放置していたらそうなる。原初の状態にもどってしまうということである。鵜あんなにして木に何羽もとまっているのは見たことがない、家がなく人もいないから鵜が来やすくなったのである。それも自然にもどっている。


それにしても川口神社に二十隻もの船の名前が記されていた。そんなに船をもっていた人がいたのか?
烏崎の方に確かにそのくらいの船は停留していた。その船も烏崎からはもう出ないかもしれない、松川浦が試験で漁がはじまった。烏崎は一軒も家がないのだから回復することはないだろう。するとやはり北海道のような元の自然状態に還るのか、あそこにあった津神社は江戸時代からあったものだろう。川口神社は明治時代からのもので新しい。でも右田村からも野馬追いに出ている人がいる。
右田村も烏崎村も江戸時代からあったのである。墓が一つ残っていたのは二上とあったからあそこの出身の人がいた。しかしあの墓はあの家の前にあったのか?流されて来たのだろうか?
右田浜というと鎌田一族が主な家だった。でもあれだけ船をもっている人がいたのは意外だった。

 


津浪の跡に来た鵜の群れ


茫漠たる海
砂原に風
鳥の足跡
甲高く鳴く声
余りに多くのものが
この世に記された
自然はそれをなみした
田んぼも家も砂にうもれ
湿地帯となり葦がさやぎ
ヨシキリが巣を作り
鵜が津浪に残った松にとまる
鵜に海風がそよぎ
鵜が海の遠くを見つめている
鵜の崎とかの地名が多い日本
鵜の飛行の距離は長い
鵜は海から川の奥へとさかのぼり飛ぶ
鵜の視界は広く海とともにある
夏の日海風がそよぎわたり
津浪の跡の砂にうもれた浜が暮れる
田の代わりに草原がはるかにつつき
蝶が一羽風にあおられている


鵜ヶ崎城(要害)は丘陵の舌状部を利用した平山城で地名に由来する10を数える大小の沼を掘に見立てた堅固な城でした。本丸など城郭の中枢部分は現在の岩沼駅周辺で、駅開設や宅地開発が進むと、堀は埋め立てられ土塁などの高所は削られ、ほとんど原型をとどめていません。


岩沼辺りでもあそこは街近くまで津浪がきていたし線路を越えた山まで千貫松まで船が流された伝承が残っている。かなり海に接近していたから鵜ヶ崎城があった。鵜と関係していたことは海に近いということなのだ。鵜はかなり遠くを見ている鳥である。今までは余り鵜には注目していなかった。自然の変化で注目したのである。鵜ヶ崎城は海側にあるからもあるが鵜は遠く監視している感じだから城の名には向いている。岩沼から海を思うことはなかった。仙台に近いから海を意識しない、海岸線でも相馬から岩沼まで海を意識していない、海が見えないからだ。今回は津浪でこの海岸線を意識させられたのである。東北の古代史をみるときこの原初の状態を見ないと見えない、津浪で福島県から石巻までの海岸線が一つのつながりのように見えたのである。

 
posted by 老鶯 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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