コンビニの前で大正生まれの老人の話しを聞く(続)
(南相馬市鹿島区の上萱には明治から人が住んでいた)
コンビニの前で戦争のことなど聞いた大正生まれの老人の話をまたきいた。大正十四年生まれだった。
オ-ストラリアで米作りしているけど水はどうしているのかな、
米作りには水は大事だからな、水のいいところは米がうまい、この辺だと栃窪など山に近く水がいいからいい米がとれる、でもオ-ストラリアなんか水をどうしているのか
地下水をとっているらしい、その量は何千年にもわたりたまったものでものすごい量だってよ
ええ、そんなに地下水があるもんなのか,驚きだな
でもアメリカとかオ-ストラリアは地下水がいづれ枯渇してしまうって
森がないので地下水がたまらないからなんだよ
地下水は不思議だよ、郡山辺りで江戸時代にふった雨が地下にたまっているという
地下水ってそんなに古くからたまっているもんなんだよな
この辺は今草原化しているから水田がないから違和感が大きい、当たり前の風景がなくなったことで改めて水田があったときのことを思い出している。山から水は豊に流れ大地をうるおして田から田へと水が流れていた。そして農家には前田があり木蔭がなんとも気持ちいいものだった。その水田がないことが心まで荒廃したものとしている。つまり水が流れ活かされていないのだ。山から田に春には神がおりてくるというとき水が山から田に流れる自然との調和があった。山に祖先が眠るというとき水と深く関係していたのである。その水が流れない活かされないから心まで枯渇した感覚になる。
それは別に農家で米作りしていなくてもその風景はあまりにも長年親しんだ風景でありそれがなくなることなど想像もしなかったからだ。日本では山から水田と水は常に循環しているから地下水のようにとってしまいばなくなるということはない、常に山から水は供給されていたのである。オ-ストラリアでは森がないから水が貯えられなくなった。だから米作りの肝心な水が供給されなくなるから米作りもできなくなると言うのも想像できる。
水田が消えた
とろとろと水は流れる
山から水は尽きず流れる
水は大地をうるおし
水は山に森に貯えられ
とろとろと流れる
山の神は春には
平地におりてくる
山から水が流れるように
農家は何代もつづき
前田があり木蔭が涼しい
そんな当たり前の風景が消えたとき
その流れる水がなつかしい
水は大地の血液だった
今大地に水が流れない
水は活きていない
それは山は森も生きない
みんな一つの命だから
水を通じて命がめぐっているから
●南相馬市鹿島区の上萱は明治から人が住んでいた
その人の話では上萱(うえがや)は昔は上野と言っていたという。その人の父親の話では馬に米三俵積み自らも乗ってあの坂を上ったことを知っているという。その馬は暴れ馬で力が強かったからそれができたという。上萱は戦後に開拓に入った人たちが住んだのであり戦前とか明治には住んでいないと思った。ところが三軒くらいは前から住んでいたという、それもかなり古い、明治にも住んでいた。茅葺きの家がありあれは古いものだと思っていたがやはり戦前も明治からも人が住んでいた。
その人は大正生まれでありその父親は明治の人となるから明治には住んでいた。炭焼きなどをして町に炭を売り米を買った。それから八木沢の麓の地蔵木とか大芦にはやはり江戸時代からすでに人が住んでいたのである。なぜなら真宗系の粗末な石の墓があったからである。もちろん戦後引揚者が開拓に入ったことがかなりあった。小池の自分の父親の知り合いはフィリンピンからの引揚者で小池に開拓に入った。父親とは双葉の新山の酒屋で一緒に働いていたから知り合ったのである。戦後は引揚者が開拓に入ったという地域がかなりあった。小池は松林とかになっていて今のように畑も田んぼもなかったという。あそこが荒地となっていたのである。そういう地域がまだあった。江戸時代から住んでいた人たちの所にまた新しく開拓に入った人たちもいたからこの辺が混同するのである。
上萱がなぜ前に上野だったのか?上野から上萱に名前が変わった。その理由がよくわからない、萱を材料として使ったためか、萱場とか萱のつく地名にはそういうのが多い。茅葺きの家が多かったから材料として大量に必要だった。あそこは明治から人が住んでいたのである。こういうことは人の話からしか伝えられない、町誌など文書で記録したものには残っていない、そういうものが歴史には結構多いのである。そういう言い伝えは消えてしまうことが多いのである。だから郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまるのである。
●鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話
この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。
五貫目町(ごかんめちょう)は、神奈川県横浜市瀬谷区の地名
五貫目は一貫目が三・七キロだから十八キロにもなる。この重さは何匹に値したのか?昔家で店をしていたとき、計り売りで一キロごとに
計っていた。一キロでも結構重いから18キロとなると大変な重さである。
百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。
天秤棒一本で財を成す」という言い回しや、近江商人に由来の慣用句「近江の千両天秤」(天秤棒一本あれば行商をして千両を稼ぎ、財を成すという、近江商人の商魂の逞しさと表すと同時に、千両を稼いでも行商をやめず、初心を忘れることなく商売に励むという教訓が籠められている)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A7%A4%E6%A3%92
まさにこれであり江戸時代の話である。明治時代にもその継続があった。
奈良時代 信夫郡小手郷(現在の川俣地区)は奈良の興福寺の荘保であった。(荘園志料) 紫色が高貴な色となされた為、都では紫草の栽培や使用にたいし、厳しい規制がなされたが、ここ奥州では、紫草が保護栽培され、絹織物とともに租(税金・貢ぎ物)とされてきたと推測される。貴族階級の独占から離れ、一般の庶民が紫色を染色できる様になったのは、実に江戸時代になってからのことであり、文献で確認できるのは江戸(寛文4年1664)、幕府の天領に川俣がなってからのことであります。
18世紀頃の染色記録調査 岩城 添野村 惣七より 「奥州 川又村 紫染伝 」 「文化13年(1816)子八月 奥州川又村 紫染ヤ 忠右ェ門 ぬかた村 喜兵衛 安右ェ門 伝也」とある。 (川俣町絹織物史 おりもの展示館)
このことが、後年川俣紫としての染物が、近江商人により江戸と京都で販売され、京都の染物の3倍の濃さとの評判になり、隆盛を迎えたと古老の話にある。 (H11・11・15 高橋歌子氏談)
http://homepage2.nifty.com/khonda/newpage9.html
江戸にも売られた古い伝統をもっているのが川俣町だった。奥州川又村とあるが金比羅参りで萬延元年(1860)、奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって寄進された「箸蔵寺百丁」の道標。ここでも奥州から小さな地域の村になっている。江戸時代は川俣町が単位ではなく村が単位なのである。鹿島町も鹿島村があり鹿島町になった。あくまでも江戸時代の行政単位は村なのである。
上栃窪に金比羅の碑が多いからこれを裏付けているのだろう。
川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。五貫目というと相当な量だったから金になったのだろう。鰻は今や馬鹿高く食べることすらできなくなっている。時代は余りにも変わりすぎたのである。