2012年06月12日

最上川は日本で唯一川の文明を想起させる (最上川紀行-左沢線の旅などの追加)


最上川は日本で唯一川の文明を想起させる

(最上川紀行-左沢線の旅などの追加)
http://www.musubu.jp/haikutripatera.htm

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(最上川短歌十首)


稲刈られ米を運ぶや最上川


渡し舟昔の暮らし虫の声


紅葉して最上川や舟下り


舟のよる蔵に秋日や大石田


最上川は昔ここに人の待つ船着場かな虫の鳴くかも


最上川水の勢い酒田へと荷を積む舟や実りの秋に


滔々と流れ変わらじ最上川荷を運ぶ舟のなきが淋しも


豊けくも流れる水や最上川その勢いに春を呼ぶかな


蔵にしまう京のお雛様紅花に栄えし町や秋の夕暮


最上川酒田にいでて日本海船を待つかな蔵の並びぬ


酒田には木の灯台や栄えたる家の塀長く秋の夕暮


酒田に来飛島によりあわれかな畑耕すや秋の夕暮


飛島に鳥海山を望むかな鴎のとびぬ秋の朝かな


米俵担ぐ女の語られぬ力自慢や実りの秋に


●山形県は最上川を知ればわかる


現代は川はわかりにくい、日本では特に川の文化が希薄である。川が文明の最古の発祥地であることをみればわかる。四大文明はナイル川、ユ-フラテス川のメソポタミア、インダス文明、黄河文明と川から生まれている。インドのガンジス川はインド文明の源でありガンジス川なくしてインドはありえなかたった。それは物質精神ともに川によっていたのである。なぜなら水の供給地でありもう一つ重要なものとして川は交通路であったことが文明を作ったのである。外国の長大な川は流れが人工の運河なのである。ドイツでもラインが父なる川というときまさに川によって生まれた国だとなる。
ナイル川の川の物語は地球的スケ-ルによって作られていた。エチピアの高原の黒い土が泥となって流れて洪水となりその泥が栄養分を運んで肥沃な土地を形成したのである。その黒い土は岩石から生まれたというからその地球的地質史から生まれていたのである。福島県が放射性物質のセシウムに汚染されたというとき泥に付着して川に流れてそうなった。泥が一番の原因だったのである。泥はそれだけ川によって流れていたのである。だから新潟県の阿賀野川の下流まで影響していたのである。
日本が川のことがわからないから基本的に外国の文明を理解できないということがある。
ただ一つ最上川はその川の文明ににていたのである。最上川の流域は広大な米の産地であり紅花の産地となっていたからそれが近江商人と結びつき京都に運ばれて加工されたのである。


また最上川の流域には荒地が多かったというのは水を利用することが技術的にむずかしかったからである。水があっても水を利用することは灌漑などすることは技術が必要であり文明を作るのである。稲作と水利用は密接に結びついている。日本に水分神社が多いのは水を分けることが稲作には不可欠でありそのために村の共同体が作られていたのである。
http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/genre/06-sou/sou0302/html/01reki/01reki_03.html


仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていましたので、気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。
 むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。


最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ 斎藤茂吉


山形が有利だったのは最上川があったからである。他でも紅花は作られていたが運ぶ手段にことかいていた。いかに文明というのは交通と関係しているかわかる。川が交通路になっているから文明が作られたのである。だから最上川流域の米でも紅花でも川を通じて運ばれるから活かされたのである。そして日本海も冬をのぞいては穏やかであり北前船で京都まで運ばれた交通路になったから酒田が栄えた。

本間様は大地主として栄えた。


「金銀財貨は積んで山の如く、伊呂波四十八蔵の倉庫には累々たる米俵、金銀、銅貨、紙幣、古銭など数算することあたわず」


と言われたた。今でも山居倉庫がその名残である。そこで米俵を五俵も担いだ力持ちの女性が話題になったとか?男でも米俵を担ぐことが仕事だった。だから力をある男が称賛された。江戸時代あたりはそもそも機械がないのだから人力だから力あることが一人前とされた。田から村々にくらべ石(尺石)というのが必ずある。そこにある神社などにある石をもちあげれば一人前とされたのである。
力がなければ一人前としても認められなかったのである。今は力なくてもそれなりの仕事があるからひ弱でも生きていける。自分の庭作りした人には驚いた。機械ででしかもちあげられない石を動かしたのである。機械がないときは人間の力が頼りだったから力ある男は称賛されたのである。南相馬市鹿島区の江垂の一石坂というのも力持ちの女が一石の米を運んだから名がついたとか各地で男であれ女であれ力自慢の伝説がある。女でも力があることが称賛されたのである。美人であるより農業には力があることが望まれた。今でも農業などは力が必要なので力のない人はやりたくない、ただ機械化したので機械の操作の方に関心が移ったのである。


●最上川の俳句と短歌


最上川の全体を長い川の全体をみることはむずかしい。そのためには川を舟で下る必要がある。川に沿って下って行った時、途中なみなみと水量豊に流れる川は気持ちがいい、日本ではこのように水量豊に流れる川は最上川くらいしかないのだ。必ず川床が見えている。


五月雨を集めて早し最上川 芭蕉


これは水量の豊かさを俳句にしている。つまりこれだけの水量のある川は他に日本ではないのである

最上川秋風簗(やな)に吹きつどふ 水原秋櫻子


これは最上川というのは広いし大きいから秋風が広い川面を吹きわたり梁に集まっているというのを句にした最上川の大きさを示したものである。自然の情景の大きさを句にした。

五月雨や大河を前に家二軒 蕪村


これは最上川だったのか?水量豊かな河であることは確かである。これはこんな大きな川が決壊したらヤハな家二軒など流されるという危うい情景を見た。最上川でも堤防もまともにない状態では常に洪水の危険にさらされている。水には常に危険があった。海に面して住んでいると海の水がおしよせてくる夢をみる。水があふれる夢を見る。川もやはり海とにていた。こんなに五月雨がふったら家二軒などあっというまに流されるという感覚をもった俳句だったのだろう。そういう危険を海の側に住んでいた人が感じなかった。津浪はめったに来ないから感じなかった。人間は特に日本人は危ない場所に住んでいる。ただそういう危険感覚が消失していたのである。

一方蕪村の句は生活に根ざしたものに着目しているのが多い。


新米の坂田は早し もがみ河


毛見の衆の 舟さし下せ最上川

―――――――――――――――――
秋の季語である「毛見」は「閲・検見」で、
「けみのしゅう」は米の収穫前に出来高を検分する役人たちのこと。
当時は今のような自己申告ではなくて、
お役人が査定して年貢の額を決めていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やっかいな役人を舟で早く流してくれということになる。新米が阪田(酒田)に早くつくのは最上川が交通路となっていたからである。




草枕夢路かさねて最上川 行くへも知らず秋立ちにけり」(正岡子規『はて知らずの記』より)


正岡子規が来たのは秋だった。自転車でどこなのか?船着場が川岸にあった。そこには説明の看板だけがあり何もなかった。虫が鳴いていただけである。渡し場なども昔はどこにでもあった。交通路として川はあった。今の旅はゆくえもしらずとかならない、行方は必ずわかっているのである。この川は流れてどこに出るんだろうという何かそういうわくわくした気分がここにはあった。いつれにしろ稲田と水量豊かな最上川は生活的にも一体となってあった。引き舟もあり川岸の村から労力が提供された。川の文明が最上川にはあった。


最上川の岸辺の道はさびしけれすすきは枯れて風さむきかも(結城哀草果)


この頃すでに舟は通っていないのか、ただ最上川は大きいかからこうした寂寞もあった。今もある。

山形の方言で、
お値段を聞くときは
「なんぼ?」
お金のことを
「じぇに」
というのは上方商人の影響だと聞いたことがあります。


京都の雛人形ももたらされ商人の蔵の奥深く眠っていた。大阪や近江商人の言葉が入ってくるのもわかる。「じぇに」というのは面白い、商人の言葉で「じぇに」が一番聞く言葉だからである。
山形市にはやたら市のつく名が多いのは紅花商人が多く出入りしたからだともいう。
五日町六日町七日町八日町旅籠町などが商人と関係している。


●左沢(あてらざわ)は辺鄙な地域?


最上川は意外と曲がりくねっているから全容を知るのはむずかしい。左沢はかなり上流の方である。ここに左沢線が通っていて行ったことがあった。あそこの車が通れない古い橋が印象的である。

柳田国男の「地名考」によると愛宕神社が鎮座するアテラ、アタゴの地名は風光明媚ながら稲作に適さない僻地を意味するという、左沢(あてらざわ)はこういう観点から「左」の字がつけられた。
そうだとするとあの古い橋を渡った先はそういう辺鄙な所だったと意識する。あの古い橋は車も通らない橋は余計にそういう僻地に入る橋のように見えてくる。浪江の標葉郷も何か風光明媚でも人の住めない、開拓しにくい場所だった。禁断の場所であり共通性があった。そこに原発が作られたのである。


春はまだ左沢


左沢(あてらざわ)その名のいかに
最上川にかかりて古りしや
橋一つ車の通らざりしも
岸辺になお雪の残りて
左沢なお春はまだしも
なみなみと水は流れぬ
何か秘境めきし名や
途中にして柴橋とかの駅名も
心に残り束の間の旅路かな

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旅というのはいかに記憶されるかが問題になる。人間は忘れやすい動物である。こうして書いているのも記憶された部分を思い出してつなぎあわせて書いているのだ。日本だとあとから思い出してもいろいろとふりかえることができる。でも外国はできない、それで外国について詳しく書くことはむずかしいのである。


山形県と宮城県の境が山寺に入る所であり春でも山寺に入ると雪が残っている。その境が明確にわかるのである。国境のトンネルをぬける
と雪国だった・・・まさにこれである。そして最上川にでるときこの川を通じてすでに日本海を意識するのである。川が交通路だったからそうなる。北上川はこういう交通路にはなっていなかった。確かにあったにしろ石巻港と酒田では違っている。石巻の米は北上川流域のものではない、今回津浪にあった海側に開拓された所だった。そこにだから米を運ぶ貞山堀などの運河が作られていたのである。山形県を知るのには最上川を知らねばならない、滋賀県を知るには琵琶湖を知らねばならない、なぜなら琵琶湖は万葉集の時代から交通路だったからである。
交通路をみることは歴史では肝心なのである。交通路を知ることによって見えてくるものがかなりあるのだ。


最上川文学散歩
http://www3.ic-net.or.jp/~shibaraku/bunngakunosannpomiti.htm

 



紀行文などでも編集すると一つの新たな創造となる。本に書いてあるものでもインタ-ネットでも編集すると新たなものとして活きてくるのだ。この文からもさらに発展するものがある。書き加えるものがある。つまり文章は常に新たな様相を帯びて生成発展しているのである。本とは完結して出されているけど本も完結していない、それも編集されて生成発展するものである。インタ-ネットだと無限に生成発展するものとして提示できる。これも前に書いたものを生成発展させたものだからである。本はなかなか完結しているから利用しにくいけどインタ-ネットの中だと生成発展しやすいのである。膨大な知識はこういうふうにインタ-ネットの中で生成発展してゆく、著作権の問題があるがこれまでは出版社とかに知識が独占されていた、情報でもそうである。マスコミによって独占されていたから原発事故などを防げなかったのである。
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