2012年06月07日

教育とは能力を引き出すこと (人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


教育とは能力を引き出すこと

(人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


education 教育
[語源] L.educatio = e-(=out)+doctus = 子供の資質を引き出す行為


ローマ時代には、この石橋の上の溝に水を通して生活に使っていたのです。aqueduct の溝の部分が、水を導くための duct です。現在の duct は建物の換気、液体を流すための大きな管のことですね。このイメージをしっかりつかんでください



プログに出している抽象画だと思うがほめられた。美しいですねとコメントがあった。何度も書いてきたけどこの抽象画は芸術になっているかどうか疑問だった。ただ見ている人がいるのだから全く無視されていないのだから芸術として認められていたのかもしれない、抽象画は本当に芸術なのだろうかという疑問がある。でも抽象化が人間の精神的活動の根底にあった。文字も数字も抽象化した結果である。タ-ナ-のような大画家でも最後は抽象画になったということでも人間の精神と抽象化は密接な関係があるのだ。

educationが資質を能力を引き出すというとき、そもそも人間の能力は大方引き出さない限り眠っている。生涯で使う脳は割り程度というのは本当だろう。あとは能力が引き出されず眠っているということである。つまりどんな人でも能力はある。ただ引き出されないだけなのである。人間の能力というとき知的なことばかり言っているが社会を見ればいかに多様かわかる。人間には無数の能力をひきだすことによって社会が成り立っている。手伝いとかヘルパ-とか何かそんなものに能力が必要なのか、誰でもできるではないかとか見えるけどこれもその人に備わった能力があり向いている人といない人がいる。介護関係の仕事は力より優しさが求められるから今までにない男でも気質が要求されることになる。戦国時代だったらただ剛のものの能力が要求される。要求される能力も時代によって違ってくるのだ。


能力のない人はこの世にいない、ただ能力が引き出されないだけなのだ。芸術的感性などでも磨くにしてもそういう環境に恵まれていないと
そういう方面の感受性は身につかない、クラシック音楽などは生のオ-ケストラの演奏などをしょっちゅう聞いている人と聞けない人の差は大きいだろう。生の演奏を聞いて感動することが本当に感動することになるからだ。また自ら一つの楽器でもこなせれば音楽の関心が高まる。でもそれにはそれなりの時間が必要になるのだ。環境も必要になる。つまり能力を引き出す環境と時間に恵まれる必要があるのだ。ところが実際は貧乏な時代はほとんどそういう環境と時間に恵まれないから芸術的を鑑賞するセンスがみがけないのである。もちろん創造するのにもあくまでも自らの能力を引き出すことが創造につながる。


そして人間は能力がない人はいない、ただあらゆる方面で引き出されないというだけなのである。人間には何かしらの能力が備わっているが引き出されないのである。隠れている使われない能力が大きいのである。また能力を引き出すのには脳の状態を健全に保たないとできない、酒飲むことは脳を退化させる。一時的に脳が麻痺状態になるから能力が低下するのだ。能力を引き出せなくなるのだ。脳の潜在的力を引き出すためには節制が必要なのである。過度な酒や過度なセックスやそういうものに溺れたらどんなに潜在力があっても能力は引きだせなくなる。能力がわずかでも節制して長年努力していれば能力を引き出せるのが人間なのである。素質的に天才であっても能力を引き出すのに失敗する場合がある。一方わずかな能力でも節制していて引き出せることがあるのだ。それは別に年齢に関係なくそうできる。現実にパソコンの抽象画に目覚めたのは最近のことでありすでに60すぎてからである。60以降も引き出せる能力はいくらでもあるのだ。それもやはりそういう節制した状態でないとできないのである。


その一つの例がパソコンの抽象画だった。絵の才能が全くない自分でも抽象画が作れたという不思議がある。それはただ化学反応のようにしてパソコンのソフトから作り出したのである。パソコンのソフトは高価なものを買うより使いなれることが大事だというときまさにそのソフトを自分なりに使いこなせない方が多いのである。様々な機能があってもそれを引き出していない、ソフトの能力が引き出されていないということがパソコンをしている人は気づく。ええ、こんな機能があってこんなことできたなということが多すぎるのだ。これは脳を使いこなせないと同じである。脳の二割くらいしか使わず死んでゆく、ソフトの機能もすべてを使いこなすことはできない、何割しか使わない、そしてもともと備わっている機能を知らないことも多いのである。最近ではJ=Trimのテキスチャ-を使っていないかった。これを大理石に変換するとまた一味違ったものが作れていたのである。人間の能力もこれも使われていない、引き出されていないのだ。例えば文章を書くにしても本当は今や普通の人でも膨大なものをインタ-ネットで発表できる。すると文章を書く能力が増大するのだ。文章を書けば書くほどその能力が引き出されてくるのである。


artはもともと技術の意味だった。新しい技術が生まれたとき新しいartが生まれた。そもそも文字を書くにしても墨とか筆の発明なくしてありえないし紙の発明もそうである。


画材道具がどんどん改良されていきますが1840年にチューブ入り絵具が発明されたのです。
 それまで、画家たちは自分で絵具を作成していました。絵具の作成は画家にとって重要な技術の一つであり、その技術は画家の個性の一つでありました。良い画家とは、良い絵具を作る職人でもあったわけです。
http://foo-d.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e66a.html


印象画はチューブ入り絵具が生まれて作られたのである。それまでは画家が絵の具を作り出していた。だから逆に今の時代にはない色が作り出されていたのである。必ずしも絵の具の発達が美術を発展させたとも限らない、時代時代により絵の具を作り出していて独特の色合いを絵に出していた。その色は今に作れないものとなってもいるのだ。染料なども時代時代によって作り出されていて過去の草木染めなどは再現できないということもある。その時代によってしか再現されない芸術がありそれは価値がなくならないものとなる。

この文章を書くにしてもやはり他者のものをインタ-ネットでは利用しやすいからそういうものを編集して書いている。インタ-ネットは常に編集しながら書くものなのである。だからインタ-ネットも能力をひきだす新しいツ-ルとなっているのだ。出版社では作家の能力を引き出していたのとにているのだ。編集者はそういう役目を果たしていた。でも今は出版社の役割は作家自身に移ってゆく、
作家自身が編集する方が効率的だしインタ-ネットからは引用が簡単だから膨大な文章が書けるし発表できる。なかなかインタ-ネットでは認められないにしてもそういうことができるツ-ルではある。だからこれからは出版社はよほど創造的なことをしないと生き残れないだろう。作家自身が創造の源であったしその作家が編集して出版までできるとなると出版社の役割がなくなるからだ。


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人間が認識する色は実はどのくらいあるのかわからない、同じ青でも何百種類の青があるかもしない、それらの色が認識されないように人間の隠された機能、能力を使われていない、ソフトの能力が機能がすべて使いこなせないととにているのだ。ペインタ-12とかなると使いこなすこと自体がむずかしすぎる。機能がありすぎるからだ。自分が使ったのは二千円のペイントグラッフィックだった。これだけでも使いこなすことがむずかしい。その機能を全部使いこなすことが手間になる。ソフトはどんないいソフトでも使いこなす方が手間でありむずかしいのである。

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