藤の花とツツジ
(相馬市山上-玉野-霊山-飯館村を回る)
山上の日輪の碑はめずらしい、他で見ないからだ
滝平の手前の家の藤棚は見物
落合の丸森に行く所の白藤は見物
一本の木に藤の蔦がからまみついている
朝風に草原そよぎ夏菊の白く映えにつサイクル車行く
日立木の細道あわれ紫と白の菖蒲に松並木見ゆ
屋敷林木蔭の深し朝静かシャガの花咲く城の近きに
宇多川の上や静かに藤の花風にそよゆれホ-ムのありぬ
古き碑のまたここにありにき我がたずね朝の静かに藤のたれにき
物倉とバス停に名や山上の奥に田植えや人のすみつく
藤棚をしつらえ静か紫と白映えにつつ木の間より見ゆ
滝平とどろきひびき夏来る我が上り来て峠を越さむ
そうそうと山風そよぎ一木に白藤の花からまりつきぬ
たぎり落つ清水のひびき朝日さしツツジの赤く映えにけるかな
山里につつじの赤くそちこちに田植えしてをり暮らしありにき
新緑に風のそよぎて開拓の村や今日知る霊山の裏
山中に分かれ道かな旅心我に覚えぬ夏の日さして
玉野なる旧き道来て一人会う土地の人かな木蔭に休む
玉野なる昔の道や古き碑の並びてあわれ菖蒲咲くかな
笹町と昔の名かな争いのここにありしも古き碑のあり
玉野より霊山に来て残雪の吾妻嶺光り我に迫りぬ
飯館の人なき家や蛙鳴き帰れと待つや田は荒れにけり
どぶろくを作る家あり佐須に来てここにありてそ味の良しかも
赤々とつつじの咲きてこの家の人の帰るを待ちにけるかな
山中はなお八重桜咲きしも人なし淋し残る家かな
副霊山の開拓地に入る
ここが宇多川の源流になっていた
相馬市玉野村を通る(旧道)



飯館村へ



佐須から大倉への道は通行止め
自転車はたいがい通れる
写真はクリックすると鮮明に見えます-縮小しているので画面ではぼやけています
今回は宇多川の上流を上って行ったことになった。丸森の方にはよらなかった。古い碑は必ずわからなくても見ていた方がいい、そこが古い場所として確認できるからだ。ちょうど山上に老人ホ-ムがありその脇に江戸時代の碑が並んでいる。山上はそれなりに古い村である。今回「物倉」というバス停に注目した。なぜここにこういう地名が残ったのか?やはり人が住みついて倉ができてそこが目立ったのか共同的なものとしてあったのか?昔は個人でも大きい農家は中心的役割を果たしたから倉でも必ずしも個人の倉とは限らない。地名化するにはなんらかその土地に住んでいる人々の共同性があるからついたのである。そこでは手で田植えする人があった。そこから大きな藤棚しつらえている家があった。あれは見物である。そこからすぐに滝平になる。そこからが急な上りがつづく、落合で丸森の松が房ダムの方に向かった。
この辺で福島市と通じる高速道を作っていた。震災で早期に作るようになった。飯館村が放射能で住めなくなったことが影響した。松が房ダムから副霊山の方に向かった。そこははじめて行く所だった。阿武隈山地が意外と広い、全部を行くことはできない、自転車の旅は気ままに道にそって行くことだった。だから別れ道が旅心を旅心を誘う。どっちの道に行くかな・・というとき旅をしているのだ。その道を事前に決めてしまうと旅はつまらないものになる。旅は道を行く、道は未知なのである。近くでも道はいくらでもあるから未知の領域がある。今回の道もそうだった。ここはどこなんだろうと見当つかなかった。宇多川の上流であり源流であり副霊山に通じていた。ここは開拓村であった。だからその記念の碑があった。ここは伊達市に属している。
そこから玉野村にでてきた。ここは相馬市である。玉野村では領地争いで有名である。山林資源が豊だから米沢藩-伊達藩-相馬藩で争いがあった。伊達と相馬の境であり「伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に」であり境の桜は東玉野の115号線沿いにある。それを確かに今回丸森から伊達市を回り地理的に自覚した。米沢は遠いにしても三つの藩がかかわる境が交差するところだった。玉野も115号線の広い道路ではない旧道の方にでてきた。ここがまぎらわしい。ここの旧道にはさらに旧道があったのか細い道の脇に古い碑が並んでいた。その一つに・・暦とありこれは明暦なのか明暦となると元禄の前でありこの辺ではほとんどない、葛尾(かつろう)村の落合で見ただけである。この碑は確かに古いことは確かである。この道の方が霊山から落城のとき落ち延びて来た道なのだろう。
霊山城落城のとき落ち延びたのが二手に分かれた。一つは鹿島区の真野に逃れ中館となって残った。もう一派は山上の方に逃れた。だからそこに山王神社が祭られている。日吉神社も日枝神社もそうである。霊山は玉野から近い。ただ玉野からかなりの峠道になる。霊山町は伊達市として合併したからわかりにくくなった。合併するとなじみがないからわかりにくいのである。もともと伊達の領地として歴史があるからかえって歴史がわかりやすくなったとはいえる。でもなじんでいないからとまどうのである。伊達市の範囲が広まったこともとまどうことになる。伊達市がどこからどこまでかわからなくなる。狭い範囲のことがわかりにくくなる。その点飯館村は合併しなかったのでわかりやすい。
行合道から新しい道を上り佐須に入った。この辺は道だけはどこも新しくなって造成していた。ここもその一つである。どぶろくを作っている家はテレビでも有名であった。ただこの佐須という場所が狼も祭っている山津見神社があり神秘的色合いを出していた。この場所で本当は昔物語でも聞いてどぶろくを飲めば一層うまいとなる。店は場所の影響がある。霊山の紅葉館は吾妻山が見えるので絶景の場所にあるから気持ちがいい。あそこまで来たとき残雪の吾妻山が見える。すると福島市の方を意識するのである。飯館村では人が住んでいない、でも前も不思議だったのは廃屋とは違う、人が自由に出入りしているし家には人がいるところもあったし農作業していた人もいた。蛙も鳴いていた。その蛙の鳴く声で気づいたのは蛙は人里に鳴くものと決まっていた。田んぼと一体化して蛙が鳴いていた。その田んぼがなくなったとき蛙が鳴いているので不思議だった。蛙は人間が住んでいないときから沼地などにいたろう。しかし田んぼのなかで生きるようになってからの年月はあまりにも長い、だから人里があって蛙も鳴いていた。蛙は極めて人間的なものと化していたのである。だから人が住んでいない田んぼがいない所に鳴く蛙をイメ-ジすらできない、蛙はだから人が帰ってこいよと鳴いている。ペットとにていたのである。
ただ飯館村は放射線量が27マイクロシ-ベルがあるホットスポットがあった。これにはびっくりしたけどそこだけ異常に高かったのである。飯館村は帰れるようになるのだろうか?どうしても人がいないなくなるとは考えられないのだ。佐須から大倉の方に下ってくると一軒の家がまだ残っていてそこはツツジにおおわれていた。だからあそこも人が帰るのを待っている。とても人がいないというふうに見えないのである。八重桜がまだ山里だと咲いている。それは山里の雰囲気をかもしだしている。「遅桜なほもたづねて奥の宮 虚子」遅桜とは八重桜だったのだろうか?この句はいい句だった。山津見神社は本当に奥の宮なのである。神社は場所と密接に関係しているから移動できない、そうなると飯館村にある神社はどうなるのか?すでに半分以上は帰ることをあきらめているとかなるとどうなってしまうのだろうか?どぶろくを作っている人は福島市で作ったけどあそこて作ってこそ意味があった。場所のもたらす価値がある。そういうものは他に行ってしまったら作れない、飯館村にあったからこそ価値があるものが他にもあったのである。
ともかく大倉を下って栃窪に出る。あそこに隠された大岩がありあれがまさに千歳の岩なのである。あれに気づいている人はまれである。隠れるようにしてあるからわかりにくいのである。千年眠りにつく岩である。自転車の旅も今は疲れる。限界を感じた。なんとか病気でも行けたから良かった。
それでも天皇陛下みるとあれだけの手術しても海外旅行までしている。カ-テルを交換しただけであれだけ回復している驚きである。人間の体は機械であり血管がつまるようになったら水道管のように交換すればいいとなる。その技術がほとんど完璧だったからあれだけ回復した。自分もそうして機械のように体の部品を人工化している。別に癌ではないとするとすぐに死ぬということではない、だから運動も前のようにできなくてもそれなりにできる。長生きするのは医療の発達もあるのだ。胃ろうですでに三年も生きている人もいる。これも体を機械のように扱い生きているのだ。
ずいぶん旅ばかりしていた。旅をしたものはどこまでも旅をしたいのである。病気の中で芭蕉は旅をしていた。つまり西行とか芭蕉は旅を棲家とした常時旅人だったのである。一時的な物見遊山の旅人ではない、旅を人生として生きていたのである。旅ばかりしていると人生そのものも旅となってしまう。旅人の感覚で人生もみる。会ったり分かれたりするのも旅では常時起こっている。ただ遂には人は石のように動けなくなる。石は最終地点の象徴である。動けなくなって人は死ぬのである。
追記

この辺もあまり人は通らない、車はそれなりに通っているのか、それで少ないほうだろう
車が通らない道があったら不思議だろう。
飯館村でもいかに人間は自然の中に溶け込み暮らしていたかわかる
贅沢な空間を所有していたのである。
こういうところに暮らしている人がどうして都会や東京のような所に住めるのかと思う
福島市のマンションに住んだ人がいるがそれでも相当に違っている
花だけに飾られて人が住んでいないという家も不思議である。
花がきれいだから廃屋とは違う。誰かが住んでいるように見える。