武士(もののふ)の城の跡とて昔かな藤と菖蒲と咲きし静けき
街道のの松並木にそ椿散り立谷村の細道曲がる
相馬なる城下を歩み川岸にシャガの花咲く家そ静けき
若葉して欅にそよぐ風清し山鳩高きに一羽鳴くかな
我が庭に緋色の牡丹他の家に深紫の牡丹見るかな
七輪の牡丹一輪散りにけりその豊けさや朝日に映えぬ
栄ある家にしあれや七輪の牡丹一輪散るも残り映ゆ
七輪の牡丹の一輪散りにしも午後の日さしてなお華やぎぬ
白藤と菖蒲の咲けるその間黒猫一匹歩みけるかな
同題仙遊観 同じく仙遊観に題す
仙臺初見五城楼 仙台初めて見る五城楼
風物凄凄宿雨収 風物凄凄として宿雨収まる
山色遙連秦樹晩 山色遙かに連なる秦樹の晩
砧聲近報漢宮秋 砧声近く報ず漢宮の秋
疎松影落空壇淨 疎松影落ちて空壇浄く
細草春香小洞幽 細草春香ぐはしくして小洞幽かなり
何用別尋方外去 何ぞ用ゐん別に方外を尋ねて去るを
人間亦自有丹丘 人間亦た自ら丹丘有り
仙台の由来がこの漢詩である。漢宮の秋となっているけど現代は今の状態からイメ-ジするから錯覚していることが多々ある。中国の宮廷でもそこは自然の中にあり自然の中に配置されているから今の大都会とはまるで違っていた。これだけの宮殿があったとして「砧声近く報ず漢宮の秋」とあるのか?農民の暮らしが宮殿の近くにあった。中国旅行して「私は農民です、ノンミンです、お土産買ってください」といっていたけど日本語と共通したものがあった。漢宮というとき自然から離れた大きなものをイメ-ジしている。でもまじかに農民の生活が感じられる場所だった。ましてや江戸時代の城の回りはこれ以上に田畑が囲む農民の暮らしの真っ只中にあった。城はただ一番目立つものとしてあった。それでも今からするとビルなどを見るとなぜこんなに小さいのだろうと思ってしまう。そんな小さなものが城なのかとなる。中国やヨ-ロッパの城は比較的大きいから余計そう見える。
亘理には駅が城に作ったけどあそこに城があったのか?あの城を見ると回りがほとんど田畑になっている。「農民の冬菜畑や城を見る」とかなる。城下町といってもいかに小さな町だったか、やっと田であったところを町にしたのが城下町だった。だから田町という地名がその名残りとしてどこにでもある。田が町になった、通りになった。相馬藩の相馬市もそうだった。
相馬となると相馬野馬追いで有名だから外から見ると大きな城があるように見える。しかし相馬市の城跡に来てみればなにもない、ここに城があったというのもわからない、門が一つあってもそれが馬一頭がやっと通るだけの門なのである。大手門とか大きな門もない、一体ここに城があったのかと思う。堀しか残っていないのだ。ではなぜ野馬追いの豪華な行列かあるのかという疑問になる。外から見ている人は野馬追いは誰でも参加できると思っている。しかし地元でも野馬追いに出る人は極めて限られているのだ。実際に地元に住んでいても野馬追いに出る人とめったにあわない、知らないのである。ええ、野馬追いに出る人を知らない・・・?実際野馬追いに出る人とあったことがない、知り合いになっている人もまれなのだ。一見あれだけの馬が出ているのだからみんな野馬追いに出ている人を知っていると思っている。でも地元ですら野馬追いに出る人を知らない、それだけ野馬追いに出る人は希少価値がある家なのである。野馬追いに出る人は在郷の給人武士であり農民と武士を兼ね備えた郷士である。相馬藩ではまず城勤めの人は少ない、だから野馬追いでもほとんど農家出身である。
例えば鹿島区でも一軒くらいしか町から野馬追いに出るのを見ただけである。町内からはほとんど出ていない、これは相馬市でも原町でもにている。原町は原町村であり武家の出が一軒しかなかったのである。町内は新しいのであり原町市などは明治以降人口が集中したのでありそれまでは野馬追いの訓練する原っぱでありだから原町になっていた。野馬土手というのが原町の広い範囲にあり街内はほとんど野馬追いのための原っぱだったのである。野馬追いの祭りは文化財の保護のためにもあり勝手に脚色したりして祭りを盛り上げるようなことはできない、他の祭りはネブタ祭りなどは誰でも外から来てもハネコになれる、野馬追いはちゃんとした由来をもったものしか出れないのである。そこが外からの人も誤解している。南相馬市と相馬市とあわせて10万以上の人口がある。その中で500頭が野馬追いに出たとしてもその割り合いは極めて少ないのである。そこが外から見たときかなり野馬追いを誤解しているのだ。全国の人がプログを読んでいるのでこれを書いた。
それでも六万石の城があったのだから城下町の様相が相馬市には残っている。枡形とかも細い路次は当時の城下町の名残である。それにしても以前として外から来たらどこか城下町となってしまう。
当時の面影を知るのは日立木の松並木とあの細道なのである。あそこか昔の浜街道の面影が一番残っている場所である。今年も相馬の城
跡の桜は散った。六万石の桜は散った。相馬藩で残念なのはどんな人が住んだとか侍でも物語が浮かんでこない、会津とかは絶えず語られるけど何かそういう人物物語に欠けている。それも何か淋しいのである。武士より二宮尊徳については絶えず語られている。でも二宮尊徳自体も相馬藩には来ていない、その弟子が来て教えられて相馬藩を復興した。いづれにしろ物語に欠けているから何か語るものがないのである。野馬追いがあるから何かもっと語るものがあるように見えてもないのだ。3000の旗があるというとき旗祭りだというのも確かである。この旗についても良くわからない。どういう由来でその旗になっいるのかも明確ではない。野馬追いは明かにいろいろな旗があるから興味深いとなっているが旗についてわからないのだ。研究すればいろいろあるのだろうけどわかりにくい、石田三成の旗が野馬追いに出ていることは面白い。なぜなら石田三成は相馬藩と因縁が深い、南相馬市の鹿島区の田中城の興亡にかかわっていたた。実際に相馬藩に来ていてその旗印を残したのである。これだけは旗印の由来がはっきりしているのだ。
ともかく今年の春も逝った。相馬の城跡には桜のあとは神社の境内に藤の花が垂れ咲き堀には菖蒲が咲く、人間は武士の時代は終わったというけど実際は明治以降も武士の時代の延長だった。平和がなかったのだ。富国強兵でありかえって平民まで兵隊にされた時代だったのである。強制的に武士にされて戦わされて4百万人も戦死した。武士の時代、戦争の時代が明治維新以後の日本だった。武士だけではない民をまきこんだ戦争の時代であり不幸な時代だったのだ。武士の時代より柔和なるものの時代、花を愛でる時代がいいとなる。柔和なるものが地を継ぐ・・・時代の方がいいとなる。
桜はやはり日本人を象徴した花だというとき一時咲いてたちまち散ってしまう、その一時に美を感じる、それ故、若い人もその桜に例えられ死んだという批判もわかる。結局戦争で死んだ若い人はいくら慰めても英霊とかたたえても不幸だったことはまちがいないない。今の時代の方がどれだけ良かったかと比べればそうなる。実際に20代で死ななければならないと追い詰められたらどうなるのか、肺病で死ぬ人も多かったしそれを考えると今は幸福だったとなる。
牡丹は栄の象徴的花である。今年は七輪咲いた。一輪散ってもなお六輪咲いて光にまぶしい。
金の感覚でも一億円もっている人は百万くらいははした金とかなりやすい、本当の金持ちはやはり資産家は今は一億円ではない、土地とか家とか資産をもっていてさらに何十億と金のある人だろう。
そういう人の金の感覚と貧乏人の金の感覚は違っている。それが本当に豊かなことなのである。
そういう富豪は東北にはまれである。だから豪壮なものが生まれていないだ。東京などの都会には一億円もっている人が百万人いるとかざらにいるし資産家も多い。でも文化は生まれない、ルネサンスは生まれない、フィレンツなどは地方都市であり自然に囲まれていた。東京などはそういう文化を産む基盤がないのだ。だからいくら金があっても文化は生まれない、ルネサンスは生まれない、奈良や京都や大阪でももともと自然を基盤として作られた街であった。奈良は特にそうだった。だからこそ万葉集が生まれたのである。江戸すら自然に囲まれた都市だった。だから浮世絵とか生まれた。
文化は今や地方からしか生まれない、だから地方に金持ちがいるべきなのだ。地方に金を回すべきであり都会に回すべきでなはない、スカイツリ-なんかくだらない、あんなものが文化でありえない、
東京ではどんなことをしても美を作り出せない、そもそも自然が美の基だとしたらそれがないのだからどんなものを人工的に作っても醜くなってしまうのである。
白藤の下に黒猫がいた。その眼が光りこちらを向いていた。これも不気味だったが白藤とか静謐なものに猫はあっている。猫が入り組んだ墓の間を歩くとき何かあっている。猫は静謐なク-ルな目をもっている。何かをじっと静観しして見ている。それは自分の性格とも通じていた。猫の性がある。
犬は絶えずじゃれついている。騒がしい、猫はその正反対なのである。だから藤の花や菖蒲にあっている。