姥柳90過ぎて実り映ゆ
もめごとなく隣に静か秋の薔薇
秋の薔薇痛むも身近に我が見ゆる
アパ−トに老婆の住むや昼の虫
黄金の実りが姥柳に映えている。実りというとき九〇からでも実りはありうる。長生きの時代だからそうなる。一万くらいの町で百歳以上が一〇人いた、去年は一人くらいだった。この数はこれからますますふえてくる。全国では三万人なのだ。九〇以上だからといって今は誰も驚かないのだ。それと同時に長生きの明るい面と暗い面がでてくる。介護の問題やら認知症の問題は余りに深刻であり重荷であり暗い面である。つくづく人間にはいいことがあっても必ず悪いことがつきまとっている。全部いいということはありえないのだ。雨も慈雨となれば災害をもたらすのと同じである。
良くみていないと気づかないことがよくある。隣は相当長くなる、一〇年以上になっても住んでいる人がよくわからないし見ていない、良く見れば庭に秋の薔薇が咲いていて隣の百合の花に向いて咲いていたのである。
隣とはたいがいもめごとができてくるの普通であるが全然知らないというのも淋しい、この両方ともうまくいくことはない、人間には何でもいいことと悪いことがつきまとっているのだ。
薔薇も身近に見ている薔薇は痛んでいた。身近にあればその痛む薔薇が身近であり自分の心も痛むのである。身近に見る花と旅にして見る花は違っているのだ。