2012年05月04日

春から夏へ-俳句


春から夏へ-俳句



雨しとといつもの道や余花に暮る


雨にぬれ夕風きりて雲雀鳴く


道の駅遠くより来る若葉かな


葉桜の青々として雨にぬる


雨ふりて蛙の鳴くや湿地かな


ゆうたりと鯉の動かずアメンボウ


月光り晩年あわれ雲雀鳴く

夏になった。葉桜などが雨にぬれて青々として気持ちがいい。原町の道の駅によると連休で遠くから車が来ている。六号線からは来れないからここにくる人は特別興味あるから用事ある人かもしれない、ただ未だに除染とか工事関係の人の出入りが多いのがこの辺である。
自転車で走っているときが一番気持ちいい、雨とか風には弱いけど風を切って走ることは気持ちいいのである。これは車で味わえない、車は自然を遮断してしまう。でも車にのる人は車にのったときだけ主人公になれる。車で飛ばすときただ使われる労働ではなく自分が主人になれる。だから用事でのる人よりそういう爽快感を得るために乗っている。これは車をもっていない人にはわからない心境である。車にのっているときだけ自由を感じるというのはありえる。だから暴走族とかもそういう感覚で飛ばすのである。それだけ現代社会は自分が主人になれるということがなさすぎるのかもしれない、何かに絶えず追われ使役される。労働に満足がないからそうなる。
池に鯉が動かない、ゆったりとして動かない、それを見ていただけでゆったりする。まず今の人間を見てゆったりすることなどありえない、めまぐるしく人も変わってゆく、みんな余裕がない、この辺は特にそうなった。ただ昼間から酒飲んでいるとか暇になった人がふえた。それはゆったりしているともいえない。ゆったりとして動かないものがいて子供のようにアメンボウのように波紋を作り遊ぶものがいる。前はこうしてゆったりとした時間があったが今はない、自分も絶えず食事の用意とかに追われている。三食用意するのは自分一人だけでも大変なのである。

月が光りなおも雲雀が野に鳴いていた。田んぼはないから原野化して野に鳴いているのも不思議である。明かに雲雀や燕でも草原のような所があっていた。水田は実は人工的な文明の一つだったのである。もともと湿地帯とか原野が自然の状態だったのである。北海道ではエゾシカが原野を駆けていた。何かわからないこの辺で原野化して野生化した大型の犬なのだろうか、一瞬幻のように疾走して消えた。20キロ圏内は警戒区域になっていた。その時野生化した牛や犬や猫がいた。その一部が境界を越えて来たのかもしれない、犬のようにも見えなかった、何かの野生のものなのだろうか?
警戒区域内は人が住まず野生化してゆく、チェルノブエリでも狼とかヘラジカとかが入ってきた。
人が住んでいないところは野生の動物が住むのには適しているからそうなるのだ。

 
 
 
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